灰燼の天秤、白薔薇のソナタ

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灰燼の天秤、白薔薇のソナタ

GoodNovel new 完結

夫である氷室蒼介(ひむろ そうすけ)とベッドをともにした直後、朝比奈月(あさひな つき)は体を流そうとバスルームへ向かおうとしていた。 すると突然、半開きになっていたクローゼットの扉が勢いよく開き、親友の姫野莉子(ひめの りこ)が飛び出してきた。彼女は腹を抱えて大爆笑している。 「月ちゃん、普段はツンとすましてるのに、あんな時はあんなにイジめ抜かれたような顔するんだね!超ウケる!」 莉子はそう言いながら、目を剥いて舌を出し、月が無意識に唇を噛んで震える様子を大げさに真似てみせた。 月の顔からサッと血の気が引き、彼女はその場に凍りついた。 莉子は月の羞恥に満ちた表情など気にも留めず、悪びれもせず歩み寄り、背伸びをして蒼介の首に腕を回すと、その喉仏を爪でなぞった。 「蒼介ってば、意外と野獣なんだね。うちの月ちゃんをあんなにメチャクチャにして……あーあ、かわいそうに」 蒼介は低く笑い、指先で莉子の額をピンと弾いた。その声には、事後の満ち足りた気だるさが漂っていた。 「だから言っただろ、誰かさんが信じないからだってな」 「ハッタリかもしれないじゃん!」 莉子はニヤニヤしながら、彼のバスローブの裾を引っ張った。 「私が直接確かめてみないとねー」

チャプター (1)

第1章

夫である氷室蒼介(ひむろ そうすけ)とベッドをともにした直後、朝比奈月(あさひな つき)は体を流そうとバスルームへ向かおうとしていた。 すると突然、半開きになっていたクローゼットの扉が勢いよく開き、親友の姫野莉子(ひめの りこ)が飛び出してきた。彼女は腹を抱えて大爆笑している。 「月ちゃん、普段はツンとすましてるのに、あんな時はあんなにイジめ抜かれたような顔するんだね!超ウケる!」 莉子はそう言いながら、目を剥いて舌を出し、月が無意識に唇を噛んで震える様子を大げさに真似てみせた。 月の顔からサッと血の気が引き、彼女はその場に凍りついた。 莉子は月の羞恥に満ちた表情など気にも留めず、悪びれもせず歩み寄り、背伸びをして蒼介の首に腕を回すと、その喉仏を爪でなぞった。 「蒼介ってば、意外と野獣なんだね。うちの月ちゃんをあんなにメチャクチャにして……あーあ、かわいそうに」 蒼介は低く笑い、指先で莉子の額をピンと弾いた。その声には、事後の満ち足りた気だるさが漂っていた。 「だから言っただろ、誰かさんが信じないからだってな」 「ハッタリかもしれないじゃん!」 莉子はニヤニヤしながら、彼のバスローブの裾を引っ張った。 「私が直接確かめてみないとねー」 第1話 過去に何度もあったように、2人が顔を合わせると大人の落ち着きなどどこへやら、まるで8歳の子供のようにじゃれ合い始める。 莉子と月は幼馴染だった。莉子は明るく華やかな性格をしており、生まれつき月よりも愛嬌があった。 誰に対しても冷淡な蒼介でさえ、彼女に3度会っただけで、次第に表情を緩めるようになったほどだ。 専門卒である莉子を、異例の厚遇で法律事務所の専属アシスタントとして雇い入れることまでした。 もし蒼介が最初に莉子に出会っていたら、それでも自分と結婚することを選んでくれただろうか。月は時折、そんな不安に駆られることがあった。 言い知れぬその焦燥感を、月はある夜、ついに夫に打ち明けた。 蒼介は少し戸惑った様子を見せた後、震える月の体を強く抱きしめた。 「彼女は君の友達だから、少しだけ大目に見ているだけだ」 彼は月を見つめ、静かな瞳で言った。 「誰かが君に取って代わることなんてない。君は俺にとって、唯一無二なんだから」 その瞬間、心臓が爆発しそうなほど大きく鳴り響いた。以来、月は自分にそう言い聞かせ、この特異な関係に慣れようと努めてきた。 今、目の前で繰り広げられる甘ったるいじゃれ合いが、空気をねっとりと熱くさせている。 月だけがその場に立ち尽くし、耐え難い屈辱で全身を震わせていた。 月はたまらず手を振り上げ、莉子に向かって平手打ちを食らわせようとした。 「莉子!頭おかしいんじゃないの!?なんでうちのクローゼットに隠れてたの!?」 しかし、その手首は空中で強く掴み止められた。 夫である蒼介が彼女の手首を握りしめ、低く笑い声を上げた。 「まだそんな元気があるのか?俺の努力が足りなかったみたいだな」 彼は甘やかすようなため息をついた。 「莉子はちょっとエッチなイタズラ好きで、単なる好奇心だ。 しつこくせがまれたから、少しだけ覗くのを許したんだ。君が恥ずかしがるのは分かってたから、黙ってた」 月は目を見開き、心臓を強く握りつぶされたような感覚に襲われた。 「あなたが許したの?」 月の声は掠れていた。 「蒼介、あれは私たち夫婦の一番プライベートな時間なのに……どうしてそんなこと……」 「見るくらい、いいじゃん!水臭いなぁ!」 莉子は全く気にする様子もなく、親しげに月の肩を抱き寄せた。 「月ちゃん、マジで怒ってる?そんなに怒ること?顔しか撮ってないし、変なところは写ってないよ」 月は瞬時に涙目になり、スマートフォンを奪おうと弾かれたように飛びかかった。 「写真まで撮ったの!?」 莉子は蒼介の背後に隠れ、スマートフォンを掲げてヘラヘラと笑いながら避けた。 「だって、あん時の月ちゃんの顔、超可愛かったんだもん。我慢できなくて、みんなにシェアしちゃった!」 蒼介は目を伏せ、莉子を庇うように前に立った。 月は何度も無様に飛びかかっては空を切り、床に膝を打ちつけて鈍い音を立てた。 しかし、画面が光るそのスマートフォンは、常に温かく分厚い胸板に阻まれ、決して手が届くことはなかった。 悔しさと悲しみで、鼻の奥がツンと痛んだ。 莉子が笑い疲れ、蒼介の背中にもたれかかって息を切らすまで、それは続いた。 「もうおしまい、おしまい……」 そこでようやく、蒼介は再び伸びてきた月の手首をあっさりと掴んだ。 「いい加減にしろ、大人げない」 だが月は構わず、手首の激痛に耐えながらスマートフォンを奪い取った。 見知らぬLINEのグループ画面が目に飛び込んできた。 グループの作成者は氷室蒼介。共同管理者は姫野莉子。 メンバーリストには法律事務所の全員が名を連ねており、清掃員すら入っているのに、月だけが除外されていた。 百人を超える大グループのトーク画面が、月の写真で埋め尽くされていた。 【マジかよ!朝比奈先生、いつもはツンとすましてるのに、裏じゃこんなに激しいのかよ?】 【俺、鼻血まで出たんだよ!たまんねーな!】 月は震える指で画面をスクロールした。 このグループ内で、莉子は毎日何かを自慢していた。 蒼介につけてもらったダイヤモンドのネックレスの写真をアップしたり、彼女と一緒にライブに行くために彼が大きな案件を蹴ったことを自慢したりしていた。 グループのメンバーたちは冷やかし半分に、莉子を「奥様」と呼んでいた。 蒼介はそれにこう返信していた。 【裏で呼ぶだけにしとけ。月にバレないようにな。あいつは被害妄想が激しいから、騒ぎ出すぞ】 その履歴が、目を刺すように痛かった。 蒼介は月のこぼれ落ちる涙を見て少し眉をひそめ、手を伸ばしてそれを拭った。 「ガラスのハートだな。俺たちがちゃんと隠してたのに、君が無理やり見たんじゃないか。勝手に見ておいてショックを受けるなんて、誰への当てつけのつもりだ?」 莉子もすり寄ってきて、月のもう片方の腕にすりすりしながら、甘えた声で言った。 「月ちゃん、泣かないでよー。私と蒼介はただのおふざけで、月ちゃんが一番大好きなんだから」 左右から伸びた二つの手が、親しげに月を繋ぎ止めていた。 しかし月は全身が冷え切っていくのを感じていた。この2人の間では、彼女は永遠に蚊帳の外の部外者でしかなかった。 「離婚しましょう。これからあなたたちがどう遊ぼうと、私はもう関わらないから」 第2話 月の声はとても静かだったが、その言葉を聞いて蒼介は不機嫌そうに眉間を寄せた。 「馬鹿言うな。俺は今、すごく疲れてるんだ」 彼は気だるそうに顎を月の頭に乗せた。明らかに本気にしていない様子だった。 「そういう脅しゲームに付き合ってる暇はない。 ほらな、君をグループに入れないのは、君がムキになりすぎるからだ。たまには莉子を見習ったらどうだ。あいつはこんなくだらない些細なことで怒ったりしないぞ」 くだらない些細なこと。 その言葉が、脳裏でガンガンと反響した。 莉子が体を寄せてきて、全身を蒼介の腕の中に預けた。 「聞いた、月ちゃん?心狭いこと言わないでよ!」 月は勢いよく顔を上げ、ふっと笑い声を漏らした。 「蒼介、あなたの言う『器の大きさ』って、妻のプライベートな写真がオモチャとして共有されても平気でいられるってこと?そういうことなの? 残念だけど、私は我慢できない!」 2人が反応するより早く、月はスマートフォンを手に取り、まだ笑みを浮かべている莉子の顔に向けてシャッターを切った。 蒼介の顔色が急変した。 彼は容赦なく月の手を払い除けた。 スマートフォンが手から吹き飛び、その勢いで月はよろめいて後ずさりし、頭をドレッサーの鋭い角に強く打ちつけた。 腕で体を支えて起き上がろうとし、後頭部に触れると、生温かい血がドクドクと溢れ出しているのが分かった。 しかし、蒼介は月を一瞥だにしなかった。 彼は忙しかったのだ。 莉子を宥めるのに忙しく、スマートフォンを取り出して指先を猛スピードで動かすのに忙しかった。 メッセージの送信を取り消し、グループを削除する。その動作は流れるようにスムーズだった。 月は笑った。笑いながら、涙が溢れ出た。 莉子は性格が良いと彼は言ったが、それはどんなにとんでもないことをしでかしても、莉子自身は何もしなくても彼がすべて解決してくれるからだ。怒る必要などないのは当然である。 一方で月は、不公平を訴えただけで、器が小さいと非難されるのだ。 「うぅ……蒼介、私の腕……」 莉子がしゃくりあげながら、腕を彼の目の前に差し出した。 そこには、ほんのわずかな引っかき傷があった。 蒼介はすぐにその手を握り、痛ましそうに唇に近づけてふーふーと息を吹きかけた。 「痛いか?病院に連れて行くよ」 彼は立ち上がり、月のそばを通り過ぎる時でさえ、彼女を見下ろすことはなかった。 月は床に手をつき、首筋から襟元へと流れる血を感じながら、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑い出したくなった。 自分が頭から血を流しているというのに、夫は莉子の取るに足らないかすり傷のことしか気にかけていないのだ。 彼女は自嘲気味に口角を上げ、救急箱を引っ張り出した。 鏡もないため、感覚だけを頼りに、アルコール綿で後頭部のぱっくりと開いた傷口を押さえつけた。 血が何度も綿を赤く染め上げた。 やがて痛みも限界を超え、感覚すら麻痺していった。 月はパソコンを開いた。画面の冷たい光が、彼女の血の気のない顔を照らし出した。 新規ドキュメントを作成し、タイトルを打ち込んだ。 離婚協議書。 弁護士になってから、無数の離婚案件を処理してきたため、手続きはとうに熟知していた。 だが、自分がこの文字を打ち込む日が来るとは、夢にも思っていなかった。 部屋の中は真っ暗だった。 結婚したばかりの頃、彼女が暗闇を怖がっていたことを思い出した。 彼は毎晩、温かいオレンジ色の小さなナイトライトを点けたままにしてくれていた。 ある時、月が夜中に目を覚ますと、彼がその微かな光に眩しそうに眉をひそめているのを見た。 それでも、彼女が目を覚ましたことに気づいた瞬間、無意識に彼女を腕の中に抱き寄せ、かすれた声で「悪い夢でも見たのか?」と尋ねてくれたのだ。 彼女の敏感な感情を包み込んでくれたあの瞬間は、今や胸に突き刺さるガラスの破片と化していた。 キーを叩く指先は、麻痺から刺すような痛みへと変わっていった。 窓の外が白み始める頃、画面上の「双方は合意の上、婚姻関係を解消する」という一文を見つめながら濁った息を吐き出し、服を着たまま深い眠りに落ちた。 翌朝、月がドアを開けると、ちょうど莉子があくびをしながら玄関から入ってくるところだった。 「おはよ、月ちゃん」 莉子は目をこすりながら言った。 「昨日は外で遊びすぎちゃってさ、適当にホテル取って一晩過ごしちゃった。 あんたの旦那、いびきうるさすぎ。どんだけ愛してたらあれ我慢できるわけ?」 蒼介が莉子のキャミソールの肩紐に指を引っかけた。 「お前だって枕カバーにヨダレ垂らしてたじゃないか。俺は文句言わなかったぞ」 莉子はケラケラと笑いながら身をかわし、その合間に月に向かって声を張り上げた。 「安心してね、月ちゃん!私とあんたの旦那はただの友達みたいなもん!男としてなんて全然見てないから、変な誤解しないでね!」 蒼介も調子を合わせて言い返した。 「よく言うよ!」 月はそこに立ち尽くし、顔には何の表情も浮かべていなかった。 彼女は前に進み出ると、製本された離婚協議書を静かに蒼介の目の前に差し出した。 「離婚協議書よ。目を通す?問題がなければサインして。この場所をあんたたちに空けてあげるから」 第3話 蒼介は鼻で笑い、中身を開くことすらせず、すらりとした指でその紙の束をつまみ上げた。 ビリッという音とともに、月の目の前でそれを粉々に引き裂いた。 「月、君はどうしていつも人の心をそんなに汚く考えるんだ?」 彼の口調は淡々としていたが、その一言一言が心をえぐった。 「俺と莉子に何があるって言うんだ?こんな紙切れ数枚で、あいつを不倫相手に仕立て上げようってのか?絶対に許さない」 月は彼を見つめた。胸の奥のただれた肉さえも痛むのをやめ、後には麻痺だけが残った。 「蒼介、私が離婚したいって言ってるのに、あなたが最初に気にするのは、私がどんなに傷ついたかでも、なぜ私が限界を迎えたかでもなく……莉子の名誉なの?」 彼女は一歩前に詰め寄った。怒りで体が微かに震えていた。 「やましくないって言うけど、男女が2人きりで一晩同じベッドで寝てたんでしょう。ええ、最後まではしてないかもしれないわ。でも、私はそれが気持ち悪いと思ってる。それじゃダメなの!?」 「月ちゃん、もう言わないで……」 莉子が突然泣き出し、勢いよく手を上げると、自分の頬を強く平手打ちした。 「私がバカだった!私が図々しかった!月ちゃんは私の親友だし、蒼介も私にとってすごく大事な人だから、私のせいで喧嘩しないで……」 彼女は飛びついて月を抱きしめようとしたが、月に振り払われた。 「本当に私のことを思ってるなら、私の夫にずっと媚びを売ったりしないはずよ!」 莉子は完全に呆然とした。普段は温厚な月が、これほど辛辣な言葉を口にするとは予想もしていなかったのだ。 「月ちゃん、ひどいよ……どうしてそんなこと言うの!?」 彼女は顔を覆い、ふらふらと外へ向かって走り出した。 「朝比奈月、考えが卑しいから、何を見ても汚く見えるんだろ」 蒼介は彼女を一瞥した。その瞳には隠しきれない失望が浮かんでいた。 そして、踵を返して追いかけていった。 「莉子!」 玄関のドアが、轟音を立てて叩きつけられた。 だだっ広い部屋に、またしても月一人だけが残された。 彼女はゆっくりとしゃがみ込み、引き裂かれた協議書の欠片を一枚一枚拾い集めた。 構わない。破かれたなら、また印刷すればいい。 彼女は彼にはっきりと告げなければならなかった。冗談などではない、本当に終わらせるのだと! 法律事務所に駆けつけた時、いつもよりきっちり30分遅刻していた。 月は入り口に立ったが、足は鉛のように重かった。 昨夜、百人以上のグループチャットにばら撒かれた、自分の乱れた写真が、まだ目の前で揺れているようだった。 同僚たちの視線を浴びるのが、急に恐ろしくなった。 深呼吸をして、意を決してドアを押し開けようとしたその時、ロビーの中から掠れた叫び声が聞こえてきた。父親の声だった。 月はハッとし、昨晩、父親の朝比奈直人(あさひな なおと)からかかってきた電話を瞬時に思い出した。 年老いた父親は電話の向こうで嬉しそうに笑っていた。 「月、お前の大好物の漬物を漬けたから、少し持って行ってやろうか?」 その時、彼女はまさにペンを握り、離婚協議書にサインをしていたところで、心身ともに疲れ果てていた。 「お父さん、わざわざいいよ。そのうち……休みを取って実家に帰るから」 電話の向こうで短い沈黙があり、その後、直人の気後れしたような、それでいて心配そうな声が聞こえてきた。 「月、声がおかしいぞ?風邪でも引いたか?それとも蒼介くんと喧嘩でもしたのか……」 「何でもない!」 彼女は慌てて遮り、込み上げるものを必死に抑え込んだ。 「お父さん、余計な心配しないで。切るね」 彼女の異変に気づいたからだ。 一生のうちで都心など数えるほどしか行ったことのない老いた父が、電話を切った後、夜通しで駆けつけてくれたのだ。 月の心臓が激しく震え、彼女は足早に中へと入った。 目の前の光景に、彼女は我が目を疑った。 父親が、今まさに家畜のように地面に強く押さえつけられていたのだ。 頬は床に擦りつけられ、鼻水と涙で顔中がぐしゃぐしゃになっていた。 そして蒼介は、その傍らに立ち、少し眉をひそめながら淡々と指示を出していた。 「服を脱がせて、所持品検査しろ。念入りにな」 周りの同僚たちは立ったり座ったりして見ているだけで、誰一人として止めに入ろうとはしなかった。 「お父さんを離して!」 彼女は狂ったように飛びかかった。 誰かが彼女が入ってくるのを見て、わざと足を伸ばして引っかけた。 月はよろめいて傍らの受付カウンターに激突し、肘の骨がひどく痛んだ。 普段から彼女を見下していた女性弁護士が耳元に顔を寄せ、悪意に満ちた声で囁いた。 「あら、朝比奈先生。昨日の夜は搾り取られすぎちゃって、今日はまともに歩けないの?足腰ガクガク?」 月は相手に掴まれたまま必死にもがき、その腕に爪を深く食い込ませながら、震える声で叫んだ。 「お父さんを離してよ!一体何があったの!?教えて!」 第4話 数人の同僚が顔を見合わせ、暗黙の了解のように笑い合ったが、誰も彼女の質問には答えず、ただ彼女をきつく引っ張り続けた。 「まあまあ、口出ししない方がいいわよ。氷室代表は身内でも容赦しないって決めてるみたいだから。警察もすぐ来るわよ」 信じがたい光景に、パニックが月を呑み込んだ。 警察?どうしてこんな騒ぎになっているんだ!? しかし、2人の警備員が、直人が固く握りしめていた襟元を乱暴に引き剥がすのを、ただ見ていることしかできなかった。 そのシャツは、月が弁護士資格を取得した最初の年、半月分の食費を切り詰めて買ってあげたものだった。 直人はそれを何より大切にしており、お正月やお盆、あるいは都心へ用事に出かける時にしか着ようとしなかった。 今日みたいに暑い日でも、年老いた父はボタンを一番上まできっちりと留めており、襟元には汗のシミができていた。 今、その唯一の尊厳が、ずたずたに引き裂かれようとしていた。 直人は上半身を露わにされ、屈辱で全身を震わせながらも、月に向けて泣くよりも辛そうな作り笑いを浮かべてみせた。 「月……父さんは大丈夫だぞ……慌てるな…… 蒼介とちょっと誤解があったみたいでな。話し合えば分かることだから……」 月の涙が、堰を切ったように溢れ出した。 その時、誰かが一本のダイヤモンドのネックレスを探し出し、高く掲げた。 「あったぞ!本当にこいつが盗んだんだ!」 莉子が蒼介の背後から顔を出し、涙の跡を残した顔で言った。 「そう!それよ!」 彼女は声を張り上げ、見せつけるような甘ったるい声を出した。 「蒼介が誕生日にくれたプレゼントで、400万円もしたんだから! 派手すぎるからって、もったいなくてつけられなかったのに、まさか……」 彼女は体を捻り、蒼介の胸の中にすり寄った。 つま先立ちになり、彼の顎の辺りに音を立ててキスをした。 「蒼介、すっごく頼りになるね!てっきりお義父さんを庇って、私のことなんか信じてくれないと思ってた」 蒼介はそのまま彼女の腰を抱き寄せ、瞳に笑みを浮かべた。 「馬鹿だな。お前の言葉ならすべて信じるよ。誰が相手だろうと、少しでも嫌な思いをさせるようなことは絶対にしない」 直人は地面にへたり込み、濁った目を大きく見開いた。 婿が、別の女をいかに優しく庇っているかを、まざまざと見せつけられたのだ。 カッと血が頭に上った。 彼はもがきながら這い上がろうとし、掠れた声で吠えた。 「蒼介!お前、月に申し訳ないことをしたんじゃないのか!?お前……不倫をしてるんじゃないのか?」 「おじさん!何言ってるんですか!?」 莉子はすぐに蒼介の胸から顔を上げ、不機嫌そうに顔を歪めた。 「私と蒼介は純粋な友達関係ですよ!人聞きの悪いこと言わないでください!」 蒼介の顔から瞬時に笑みが消えた。 「お義父さん、あなたのその根拠のない誹謗中傷は、すべて名誉毀損に該当する可能性があるよ」 月は、怒りと屈辱で激しく震える父親の体を見つめ、湧き上がる血の気を必死に抑え込みながら、震える声で言った。 「お父さん、落ち着いて。今はそんなことを言い争ってる場合じゃないわ」 彼女は自嘲気味に口角を上げた。 「この人たちのことなんて……私はもうどうでもいいの」 彼女は蒼介に向き直り、無理やり背筋を伸ばした。 「父がこんなことをするはずがない。蒼介、あなたは弁護士なんだから、客観的証拠の重要性を誰よりも分かっているはずでしょ……」 しかし言葉を言い終わる前に、サイレンの音が遠くから近づいてきて、2人の警察官が入ってきて直人を押さえつけた。 直人は慌てふためき、老いた目に涙を浮かべた。 「月……父さんは盗んでないぞ!」 月の心は、その「盗んでない」という言葉に血だらけになるほど切り裂かれたが、今の彼女にはどうすることもできず、ただ涙をこらえるしかなかった。 「お父さん、怖がらないで。まずは調査に協力して。私を信じて、絶対に潔白を証明してみせるから!」 第5話 直人は連行された。 背後から、蒼介の冷淡な声が響いた。 「君の父親の事件だが、俺は莉子の代理人弁護士として、自ら彼女の被害を立証するつもりだ」 月の顔色は一瞬にして紙のように蒼白になった。 蒼介は東都市のトップ弁護士であり、これまで無敗を誇っている。 もし彼が本気で父親を追い詰めるつもりなら、もはや弁解の余地など全くなくなってしまう。 彼女はたまらず哀願した。 「莉子はいくら賠償金が欲しいの?私が払うから、被害届を取り下げさせて、お願い」 蒼介は目を伏せ、月の青ざめた顔を見つめた。その瞳の奥に、一瞬だけ心が痛むような色がよぎった。 彼は手を伸ばして彼女を助け起こしたが、その眼差しは同情から次第に冷酷なものへと変わっていった。 「月、そんなことはやめろ。俺は弁護士だ。私情で法を曲げれば、被害者への二次被害になる」 月は全身を震わせ、目に溜まっていた涙がとうとうこぼれ落ちた。 彼女は彼を見つめた。まるで、この男の本当の姿を初めて知ったかのようだった。 蒼介は指の腹で彼女の涙を拭った。 「大丈夫だ。君は君で何とかすればいい。だが、君を助けないのが、俺の譲れない一線だ。 何しろ君は俺の妻だからな。君を助けたら、莉子に対して不公平になる」 不公平、またその言葉か。 莉子が父親を罠にかけたのは明白で、その手口も極めて稚拙だというのに。 これほど聡明な彼が、あっさりと信じ込んでしまうとは。 明らかに誰かを贔屓しているというのに、それでもなお「公平」と言える。 そのせいで、月の恨み言すらも理不尽な言いがかりのように聞こえてしまう。 彼女は勢いよく彼を突き飛ばし、涙を拭って、一歩一歩よろめきながら外へと歩き出した。 蒼介が助けてくれないのなら、自分に頼るしかない。 それからの数日間、月は目が回るほど忙しく駆けずり回った。 愛想笑いを浮かべて関係者を食事に招き、次から次へと強い酒を喉に流し込んだ。 胃が焼けるように痛み、ある時トイレで吐き出したものの中には、目も眩むような鮮血が混じっていた。 洗面台に寄りかかり、水をすくってうがいをしようとしたその時、突然横から手が伸びてきた。 骨格のしっかりとした指の間に、綺麗にアイロンのかかったハンカチが挟まれていた。 「医者を呼びましょうか?」 月は勢いよく顔を上げた。 目に飛び込んできたのは、端正な顔立ちと、涼しげな瞳だった。仕立ての良いダークグレーのスーツを着た男が、静かに彼女を見つめていた。 彼女は目を伏せ、そのハンカチを見つめたが、指は無意識のうちに洗面台の縁をきつく掴んでいた。 またこの人だ。 この半年間、蒼介と莉子のじゃれ合いの影で自分が隅に取り残されるたびに、この男はいつも絶妙なタイミングで現れた。 遠からず近からず、テーブルをいくつか挟んだ距離から、穏やかな眼差しで彼女を見つめていたのだ。 彼女は彼を不審に思ったこともあったが、深くは考えなかった。 今、月がなかなかハンカチを受け取らず、それどころか警戒の眼差しで自分を睨みつけているのを見て、男の瞳の奥に一瞬だけ落胆の色がよぎった。 彼は手を引っ込め、ハンカチを乾いた台の上にそっと置いた。 「申し訳ありません」 彼は軽く頷いた。 「唐突すぎましたね」 彼は穏やかな手つきで名刺を差し出し、気遣うような眼差しを向けた。 「もし何かお困りのことがあれば、ご連絡ください。 ご安心を。怪しい者ではありませんから」 そう言い残すと、彼は軽く会釈をして、礼儀正しく背を向けて立ち去った。 月はその名刺をじっと見つめ、しばらく経ってから震える指先を伸ばしてつまみ上げた。 帝星グループ代表取締役社長、鷹司涼真(たかつかさ りょうま)。 彼女はスマートフォンを開いて調べた。帝星グループは東都市に数十年も君臨し、盤石の基盤を持つ、蒼介でさえ見上げなければならないほどの巨大企業だった。 月は名刺を握りしめた。指先は氷のように冷たかった。 この世にタダより高いものはないと、彼女は信じていた。ましてや、その施しを与えるのが鷹司涼真のような権力の頂点に立つ男であれば、なおさらだ。 彼の穏やかさ、彼の眼差しには、間違いなく彼女には想像もつかないほどの対価がつけられているはずだ。 月は名刺をバッグの一番奥のポケットにしまい込んだ。 乱暴に口元を拭い、メイクを直してから、再び接待の個室へと戻っていった。 だが、相手の弁護士が蒼介だと聞いた途端、頼った人々は例外なく尻込みした。 「朝比奈さん、あなたと氷室先生は夫婦なんだから、私たちに頼み込むより、家に帰って彼に折れた方がいいんじゃないですか?寝物語にでも頼み込めば、何より効果的でしょう?」 折れる? 月の口元に、苦笑いが漏れた。 当然懇願した。プライドを捨てて地に這いつくばるように頼み込んだのだ。しかし返ってきたのは、蒼介の「法に情けは無用だ」という冷酷な一言だった。 自分に一体何ができるというのか!? だが、昨日面会室で父親を見た時の光景が、再び彼女の喉を強く締め付けた。 ガラス越しに見た父親の老いた顔には、無数の小さな傷ができていた。 両手は痣だらけで腫れ上がり、受話器を握る姿勢さえも歪んでいた。 それでも年老いた父は彼女の顔を見るなり、必死に笑みを作り、ガラス越しにぎこちなく身振りを交えて言ったのだ。 「月、焦らなくていいぞ……父さんはここで美味しいものを食べて、暖かくしてるし、快適に過ごしてるから……心配するな……」 その無理に作った気楽な様子は、どんな泣き叫ぶ声よりも月の心を痛めつけた。 彼女は血の味がするまで唇を強く噛み締め、喉まで出かかった嗚咽をどうにか飲み込んだ。 もう躊躇している暇はない。父親の体はこれ以上の苦痛には耐えられない。 疲れ切った体を引きずって家に帰り、ドアを開けた瞬間、月はその場に凍りついた。 第6話 リビングでは莉子がソファに寄りかかってフルーツを口に運んでおり、その母親の姫野蓮江(ひめの はすえ)が大きなあくびをしながら堂々とゲストルームから出てきた。 月の胸がズキリと痛んだ。直人が彼女に会いに来るたび、空いているゲストルームがあるにもかかわらず、蒼介はいつも眉をひそめていた。 「月、義父さんには飯を食ったら帰ってもらってくれ。俺は潔癖症だから、他人が寝たベッドはどうしても不衛生に感じてしまうんだ」 月が目を赤くして哀願し、後で寝具はすべて洗濯して消毒すると言っても、彼はただ苛立たしげに首を横に振るだけだった。 「ダメだ、あの匂いは消えない」 直人は、いつも人が良さそうに手を振って言った。 「いいんだよ。ここのベッドは柔らかすぎて、父さんには寝慣れない。田舎に帰った方が落ち着くんだ」 しかし今、蓮江がそこに泊まり込んでいる。月はドアノブをきつく握りしめ、指の関節が白くなるほどだった。結局のところ、彼が莉子を特別扱いしているから、その母親まで受け入れているというだけのことなのだ。 「ペッ!今日は本当にツイてないね!」 蓮江は食べたお菓子のゴミを床に散らかしながら、甲高い声で文句を言った。 「朝、スーパーで特売の卵に並んでたんだけどね、前の女がグズグズしてるから、ちょっと小突いてやっただけなのに、腕が折れたとか騒ぎ立ててさ!当たり屋みたいにふっかけてきてるんだよ!」 そう言うと、彼女は蒼介に目を向けた。 「蒼介くん、あんた弁護士だろ?相手が私を訴えるって脅してきてるんだよ!この件、うまく丸め込めないかい?」 だが、蒼介は眉一つ動かさず、穏やかな口調で答えた。 「ただの民事トラブルだよ。すでに秘書に対応させている。後で俺が直接引き受けますから、おばさんは安心してここにいて」 彼は少し言葉を区切り、笑みを浮かべた。 「俺が法律を学んだのは、そもそも問題を解決するためだから」 月は凍りつき、全身の血の気が引くのを感じた。 彼があれほど口にしていた原則など、莉子の母娘の前ではいとも簡単に崩れ去るのだ。あまりの皮肉に笑いが込み上げ、目頭が熱くなった。 蓮江は安心し、ため息をつきながら足を揉んだ。 「蒼介くん、今日は遠くまで歩いたから、足がパンパンでねぇ……」 「月」 蒼介はようやく彼女の存在に気づいた。 「ちょうどいいところに帰ってきた。こっちへ来て、おばさんの足を揉んでやってくれ」 屈辱感に苛まれ、月は全身を震わせた。蒼介の心の中で、自分は一体何なのだろうか。呼びつけられればすぐに飛んでくる家政婦だとでも思っているのか。彼女は思わず声を荒らげた。 「嫌よ!」 蒼介の瞳が暗く沈み、手を伸ばして彼女を自分のそばへと乱暴に引き寄せた。 「月、君の父親の事件を忘れるな。大人しく言うことを聞けば、俺も少しは口添えしてやれるかもしれない。だが、そうでなければ……」 月は全身が冷え切り、彼の言葉の裏にある脅しを試す勇気などなかった。 結局、彼女は頷いて承諾するしかなく、蓮江に向かってゆっくりとひざまずき、汗の匂いが染み付いた相手の足を両手で包み込んだ。胃の奥から吐き気が込み上げてきた。 彼女は必死に耐え、爪を手のひらに食い込ませながら、機械的に揉み始めた。 「痛っ!もっと優しくしなよ!私を殺す気かい!」 蓮江は不満げに鼻を鳴らし、足の裏で月の顔を容赦なく蹴りつけ、せせら笑った。 「なんでも一流大学出のインテリなんだってねぇ?チッ、そんなこと言っても、結局は私みたいな婆さんの世話をする羽目になってるじゃないか」 月は目を真っ赤にしていたが、一言も発しなかった。父親が刑務所行きになるのを防げるなら、どんなことでも耐えられた。 彼女は魂のない操り人形のように、マッサージが終わるまでじっと耐え、ようやく麻痺したように手を離した。 よろめきながら立ち上がり、蒼介に向かって掠れた声で言った。 「父の事件、約束してくれたわよね……被害届を取り下げてくれる?」 蒼介は素っ気なく横を向き、手を伸ばして彼女の頭をポンと撫でた。 「馬鹿だな、俺がいつ取り下げると言った? 助けると言っても、君の父親の刑期を少し短くしてやるくらいだ。俺の義父でもあるからな、君が心配しすぎるのも見ていられないし」 月は彼を射るように見つめ、感情が一瞬にして崩壊した。 「私を騙したの!?」 彼女は勢いよく飛びかかり、狂ったように彼の胸を拳で叩きつけた。 「蒼介!また私を弄んだのね!最低!」 蒼介は苛立たしげに眉をひそめ、彼女の手を掴んだ。 「もういい加減にしろ」 彼は蓮江の方をちらりと見やり、声を潜めた。 「騒ぐな。部屋はおばさんと莉子に譲ったんだ。君は外のホテルにでも泊まってこい」 そう言い放つと、彼は有無を言わさず玄関のドアを開け、彼女を外へと押し出した。 バタン。重々しいドアを閉める音が、二つの世界を完全に隔絶した。 その晩、月は近所の安宿で過ごした。 しかし、裁判の日は迫っていた。翌日、彼女は込み上げる憎しみを必死に抑え込み、莉子に電話をかけるしかなかった。 どうしても示談書が必要だったのだ。 電話が繋がった瞬間、月は全身の力を振り絞り、声が震えないように努めた。 「莉子、お願い……示談書にサインしてくれないかな?父はもう若くないし、あの中の生活にはとても耐えられないわ……」 予想に反して、電話の向こうの莉子の声は軽やかだった。 「月ちゃん、そんなこと言わないでよ、私たちは大親友じゃない!蒼介がムキにならなきゃ、私だってとっくに気にしてなかったのに」 彼女は声を潜めた。 「大丈夫、蒼介には内緒でサインしてあげる。これは私たち2人だけの秘密ね!」 張り詰めていた糸が切れ、月は泣き笑いのような表情で涙をこぼした。 「ありがとう……莉子、本当にありがとう……カフェ『角』で会えるかな?」 「いいよ、すぐ行くね!」 第7話 電話を切り、月は電柱に寄りかかった。 あまりにもスムーズすぎて、現実味がないほどだった。しかし、たとえ蜘蛛の糸であろうと、彼女はすがるしかなかった。 場所を伝えた後、彼女は道端で焦燥感に駆られながら待っていた。 しばらくして、見慣れた黒い高級車が視界に現れた。 月は深呼吸をし、強張った笑顔をどうにか作りながら、その車に向かって手を振った。 ところが、車は減速するどころか、彼女に向かってまっすぐ突っ込んできたのだ。 月は慌てて後ろへ避けようとしたが、車のスピードが速すぎて、躱しきれなかった。 ドンッ! 鈍い音が響き、彼女は地面に激しく跳ね飛ばされた。激痛が一瞬にして全身を駆け巡った。 次の瞬間、ドアが開き、蒼介が転がり出るように飛び出してきた。 彼の顔からいつもの冷たさは消え失せ、かつてないほどの狼狽が浮かんでいた。 彼は片膝をつき、恐る恐る月を地面から抱き起こした。背中の傷口に手が触れた瞬間、彼の手が震えた。 「月?月!俺を見ろ!」 彼が切羽詰まった声で彼女の名前を呼んだ。 莉子も続いて車から降りてきて、口元を覆った。 「ごめんなさい、全部私のせいだわ……月ちゃん、大丈夫? 私、隠し事ができない性格だから、蒼介に内緒で示談書にサインしようと思ったら、緊張しちゃって。さっきブレーキとアクセルを踏み間違えちゃったの……」 激痛で意識が混濁する中、月はハッとした。 莉子は蒼介には内緒でサインすると言っていたはずだ。それなのに今、彼女はあっさりとそれを口にした。 蒼介の性格を考えれば、示談書のサインに同意するはずがない。 案の定、蒼介が月を抱きしめる動きが一瞬止まった。 彼はうつむき、腕の中で蒼白な顔をしている妻を見つめた。その瞳の奥にあった痛ましい色は、一瞬にして消え去った。 「月、君は裏で莉子に連絡して、示談書にサインさせようとしたのか? 君は莉子の優しさに付け込んで、自分の父親を無罪にしようとでも言うのか?犯罪は犯罪だ。君の小細工で法律が変わることなどあり得ない!」 一瞬にして冷酷な表情に戻った彼を見て、月は絶望で胸が冷え切るのを感じた。 彼女は喘ぎながら口を開いた。 「彼女が自分から……あなたには関係ない……」 蒼介は冷笑を漏らした。 「俺は莉子の代理人弁護士だ。依頼人の正当な権利を守り、いかなる形の精神的強要も排除する義務がある」 莉子は傍らでボロボロと涙をこぼし、どうしていいか分からないというように月を見つめた。 「私、緊張するとすぐ口が滑っちゃって……どうしよう……」 莉子の無垢を装った顔を見て、月の心の底から強烈な嘲笑が込み上げた。 道理であっさりと引き受けたわけだ。最初からサインする気など毛頭なかったのだ。 この茶番は、電話をかけた瞬間から、こうなる運命だったのだ。 だが今、そんなことを追求している余裕はなかった。 下腹部の奥深くから、突然引き絞るような激痛が爆発した。月は激痛に全身を痙攣させ、下腹部を必死に押さえた。 莉子は月がお腹を押さえる動作に気づき、瞳を暗くした。 彼女もすぐさま自分の下腹部を押さえ、青ざめた顔を作った。 「蒼介、私、急にお腹が痛くなってきちゃった……」 蒼介は眉をきつくひそめ、腕の中で苦しむ莉子を見つめ、それから地面で丸くなっている月をちらりと見下ろした。 彼は一瞬躊躇した後、すがりつく月の手を無情にも振り払った。 「莉子の具合が悪い。 君は血の匂いが強すぎる。あいつの刺激になるから、自分でタクシーを呼んで病院へ行け。交通費は後で精算してやる」 そう言い捨てるや否や、彼はためらうことなく腰をかがめ、莉子を横抱きにして抱え上げた。 エンジンの轟音が鳴り響き、瞬く間に視界から消え去った。 月は血溜まりの中でへたり込み、震える手でスマートフォンを手探りで探し出し、救急車を呼んだ。 第8話 病院で目を覚ました時、全身を引き裂くような激痛が一斉に押し寄せてきた。 「目が覚めましたか?」 当直の看護師がカーテンを開けた。 「子宮の損傷が深刻でした。命は助かりましたが、お腹の赤ちゃんはダメでした。今後、妊娠することも不可能です。ゆっくり休んでください」 赤ちゃん? 月は一瞬呆然とした。 自分は元々生理不順で、先月も遅れていた。妊娠検査薬を買ってバッグに入れていたのに、次々と起こる災難に気を取られ、検査するのを忘れていたのだ。 3年間も妊活を続け、ようやく授かった子供だったのに…… 月は絶望して目を閉じた。しかし、失った子供のために泣き叫ぶ暇もなく、あることに気づいてハッとした。 一体どれくらい眠っていたのだろう。 「今日は何日ですか?」 「17日、午後1時ですよ」 看護師はそう答えると、カルテをしまって立ち去った。 父親の裁判の開廷時間から、すでに30分が過ぎていた! 月は目の前が真っ暗になるほどの激痛に耐えながら、無理やり体を起こした。そんなことは構っていられず、すぐにタクシーを拾って裁判所へと急いだ。 しかし、法廷に飛び込もうとしたその瞬間、ふらつく彼女の体を、ある両手がしっかりと支え止めた。 「もう行かなくていい」 蒼介の声が頭上から降ってきた。 静かで、冷淡で、一縷の感情もこもっていない声。 「すでに結審した」 月は勢いよく顔を上げ、彼の底知れぬ瞳と視線がぶつかった。 蒼介は彼女の蒼白な顔を見つめ、複雑な表情を浮かべていた。 「法廷はお遊びの場じゃないんだ、月。誰も君のために時間を無駄にして、君の都合を待ってやったりはしない」 莉子がすぐに彼の横から顔を出した。 「月ちゃん、おじさんの裁判にも来ないなんて、あんまりじゃない?あの中で、おじさん一人ぼっちで可哀想だったんだから!」 バサッ。 月が何日も徹夜して準備した弁護資料の束が、床に散らばった。 希望を持たされては無惨に打ち砕かれる、その繰り返しの絶望が、ついに彼女の最後の理性を吹き飛ばした。 「どうして!蒼介、どうして……一度くらい私を助けてくれないの……」 彼女は勢いよく顔を上げ、血走った絶望の瞳で狂ったように手を振り上げ、全身の力を込めて彼の頬を平手打ちした! 「私のお父さんなのよ!やってないって言ってるのに、どうして信じてくれないの!」 彼女は支離滅裂に叫び、血走った目から涙を流した。 彼女はたった今、病院で2人の間にできた唯一の子供を失い、丸2日間も意識を失っていたのだ。 それなのに彼女の夫は、この2日間の間に、手際よく彼女の父親を刑務所に送る手続きを進めていたのである。 なんという皮肉だろうか! 蒼介の顔は平手打ちの衝撃で横を向き、頬にはあっという間に赤い腫れが浮かび上がった。 「もう気が済んだか!?法廷は証拠と手続きがすべてだ。君自身が遅刻してすっぽかしたのに、今更どの面下げて他人を責めるつもりだ?」 蒼介は彼女を乱暴に突き飛ばし、手元にあったミネラルウォーターのボトルのキャップをひねって開けた。 そして、容赦なく月の頭から冷水を浴びせかけた。 「少しは頭を冷やせ!」 氷のように冷たい水に全身が震え上がったが、蒼介は彼女に一瞥もくれなかった。 足音は次第に遠ざかり、月だけがその場でガタガタと震えながら取り残された。 彼女は激痛を堪えながら、拘置所にいる直人に面会に行った。 ガラス越しに見る直人の顔色は土気色だったが、それでも無理に笑顔を作っていた。 「月、大丈夫だ。たったの3年だ。あっという間さ…… 蒼介に腹を立てちゃいけないよ。彼は父さんが無実だってことを知らないだけなんだから。父さんのために自分を犠牲にしないで、自分の人生をしっかり生きなさい……」 月はアクリル板に手を強く押し当て、指の関節が白くなるほどだった。 このような血を吐くような恨みを抱えて、これからどうやって生きていけばいいというのか。 彼女は首を横に振り、涙をこらえた。 「お父さん、私とあの人はもう終わりよ。待っていて。絶対に無実を証明してみせる。絶対に!」 月はゆっくりと立ち上がり、トイレの鏡に映った自分の惨めな姿を見つめ、自嘲気味な笑みを浮かべた。 もう彼女には何もないのだ。 それなら、自分自身を含めてすべてを賭けてやる。 深呼吸をし、バッグの内ポケットから、震える手で箔押しの名刺を取り出した。 通話ボタンを押すと、電話はほぼ一瞬で繋がった。 向こうからは、すべてを見透かしているかのような落ち着いた低い声が聞こえてきた。 「月さん?」 彼女は瞳の奥で渦巻く憎悪を抑え込み、単刀直入に、掠れながらもはっきりとした声で言った。 「私です。鷹司社長、お願いがあります。 一つ目は、氷室蒼介に離婚協議書へサインさせること。二つ目は、父の事件の再審を勝ち取り、無実を証明することです」 電話の向こうで、涼真は軽く笑い、温かみのある声で応じた。 「それでは、交渉成立です」

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