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夫が記憶喪失を装ったので離婚しました
結婚式当日、迎えに来た桐生瑛司(きりゅう えいじ)は、数メートルの高さがある階段から足を滑らせて転落した。 怪我自体は大したことはなかったが、頭の打ちどころが悪く、記憶に混乱が生じた。 瑛司は私・早坂日和(はやさか ひより)を、昔自分を傷つけたという初恋の女性だと思い込み、私の顔を見るたびに拒絶反応を起こすようになった。 ちょうどその頃、私は自分が妊娠していることが分かった。医師は、この朗報が彼の記憶の一部を呼び覚ますかもしれないと言った。 検査結果を手に、私は喜び勇んで瑛司のもとへ向かったが、思いがけず彼と友人たちの会話を耳にしてしまう。 「さすが瑛司だな、記憶喪失の演技、めっちゃうまいじゃん!これで、早坂に飽きるまでは、結婚を迫られずに済むってわけだ」 「バカ言うな、俺は日和を愛してるんだよ。この先も一生、愛するのは彼女だけだ。あと半月ほど遊んだら、ちゃんと身を固めて結婚するさ」 「半月?会員制クラブの女なんて、まだ半分も遊び尽くしてないだろ。それで満足できるのかよ」 瑛司は冷ややかな顔で吐き捨てた。 「俺はそんな無責任なクズ野郎じゃない。曲がりなりにも日和とはもう何年も付き合ってるんだ、ちゃんと嫁にもらうさ。 それより早く女を呼んでくれ、昨日の、腰が細くて尻の大きいあの子、なかなかそそられたな」 私は震える手で検査結果の用紙を破り捨て、その場を後にした。
チャプター (1)
第1章
結婚式当日、迎えに来た桐生瑛司(きりゅう えいじ)は、数メートルの高さがある階段から足を滑らせて転落した。
怪我自体は大したことはなかったが、頭の打ちどころが悪く、記憶に混乱が生じた。
瑛司は私・早坂日和(はやさか ひより)を、昔自分を傷つけたという初恋の女性だと思い込み、私の顔を見るたびに拒絶反応を起こすようになった。
ちょうどその頃、私は自分が妊娠していることが分かった。医師は、この朗報が彼の記憶の一部を呼び覚ますかもしれないと言った。
検査結果を手に、私は喜び勇んで瑛司のもとへ向かったが、思いがけず彼と友人たちの会話を耳にしてしまう。
「さすが瑛司だな、記憶喪失の演技、めっちゃうまいじゃん!これで、早坂に飽きるまでは、結婚を迫られずに済むってわけだ」
「バカ言うな、俺は日和を愛してるんだよ。この先も一生、愛するのは彼女だけだ。あと半月ほど遊んだら、ちゃんと身を固めて結婚するさ」
「半月?会員制クラブの女なんて、まだ半分も遊び尽くしてないだろ。それで満足できるのかよ」
瑛司は冷ややかな顔で吐き捨てた。
「俺はそんな無責任なクズ野郎じゃない。曲がりなりにも日和とはもう何年も付き合ってるんだ、ちゃんと嫁にもらうさ。
それより早く女を呼んでくれ、昨日の、腰が細くて尻の大きいあの子、なかなかそそられたな」
私は震える手で検査結果の用紙を破り捨て、その場を後にした。
第1話
家に帰る途中、放心状態だった私は、通りかかったバイクにはねられて地面に倒れ込んだ。
バイクに乗っていた中年の男は、悪態をつきながら何度も私を振り返った。
「死ぬなら余所で死ねよ、人様に迷惑かけんな」
脚に走る痛みと、男の怒りに満ちた視線に急かされるように、私は無意識のうちに瑛司に電話をかけていた。
電話は繋がったものの、誰も出ない。聞こえてくるのは、男女が睦言を交わす、艶めいた声だけだった。
「瑛司さん、私と婚約者、どっちがすごい?」
「あいつか?何もかも申し分ないんだけどな、ベッドの上じゃまるで死んだ魚みたいで、反応がまったくないんだよ……」
続いて聞こえてきたのは、顔が熱くなるような、際どい声だった。
私は電話を切り、目を閉じた。心はすでに、冷たい灰と化していた。
通りがかりの親切な人が、私を病院まで運んでくれた。
診察したのは、瑛司の同僚である神谷隼人(かみや はやと)だった。足首の骨折だと診断されたが、私が妊婦であるため、迂闊に薬は使えないという。
私がまだ妊娠のことを瑛司に伝えていないと知り、隼人は目を丸くした。
「妊娠したのに、どうして言わないんだ?もしかしたら、それがきっかけで彼の記憶が戻るかもしれないだろう」
私は苦笑いを浮かべた。
「それで治るような人なら、そもそもきっかけも刺激も必要もないでしょうね」
この何日も、瑛司のことで眠れず食も喉を通らず、体重は5キロ近くも落ちた。それでも瑛司は相変わらず、ほかの女の上で励んでいるのだ。
隼人は私の頼みに押し切られ、渋々ながらも了承してくれた。
とはいえ骨折した身では自力で帰れるはずもなく、実家の家族も皆遠方に住んでいる。
「やっぱり瑛司さんに迎えに来てもらった方がいい。一人じゃ、道中で何かあったら心配だ」
ところが電話が繋がって二言三言も話さないうちに、受話器の向こうで瑛司が何度も鼻で笑った。
「足首の骨折だと?さっきまで普通に歩いてたのに、なんで急に骨折したんだ?
早坂さんも、なかなかやるじゃないか。俺にまとわりつくために、自傷芝居まで打つとはな」
隼人は同情するような目で私を見つめ、ほかに頼れる相手はいないのかと尋ねた。
私は携帯の連絡先を何度も見返した末、長らく連絡を取っていなかった友人に電話をかけた。
すべての手続きを終えた頃になって、私はようやく瑛司から届いていた何通ものメッセージに気づいた。
【早坂さん、いつまでもこんな調子でいるのは、正直つまらないよ。しつこく付きまとう女は、俺の好みじゃないんだ】
【俺の気を引くために、同僚まで抱き込んで芝居を打つなんてな。さすがにそれは一線を越えてる。もう家からは出て行ってくれ】
私が拒むとでも思ったのか、瑛司はわざわざ新しい部屋まで見つけていた。
施しでもするかのように、こう付け加えてきた。
【家賃は3ヶ月分払っておいた。お前の話じゃ、俺たちも一応愛し合ってたことになってるんだろう?これを、俺からお前への最後の贈り物ってことにしてくれ】
私は【わかった】の一言だけを返した。心は不思議なほど、凪いでいた。
携帯電話の画面を閉じる前、私はもう一度、瑛司のSNSを覗いてみた。
毎日のように違う女とのラブラブぶりを見せつけていて、今の生活にすっかり満足しているのが伝わってきた。
ところが病院を出る時になって、思いがけず瑛司と鉢合わせすることになった。
普段は身だしなみに人一倍うるさい瑛司なのに、シャツのボタンさえ掛け違えていた。
私はその場に立ち尽くしたまま、瑛司が知らない女を抱きかかえて救急外来に駆け込んでいくのを、ただ呆然と見つめていた。
第2話
「やだ、桐生先生が運び込んだあの子、一体誰なの?桐生先生ものすごく取り乱してたわよ」
「さあ。でもすごく綺麗な子だったし、桐生先生とお似合いだったわね」
「筋肉痛めただけで大したことないらしいのに、桐生先生がどうしても自分で診るって聞かなかったんだって」
……
私は自嘲気味に笑った。人が変わればその扱いはこうも違うものかと思う。
私が骨折した時、瑛司は自傷芝居だと言い放った。それなのに、あの子はただの筋肉痛で、これほどまでに取り乱すとは。
ぼんやりとその光景を眺めていた私は、瑛司が愛人の手当てを終えて目の前まで歩いてきて、ようやく我に返った。
「なんでお前がここにいるんだ?」
瑛司はぐるぐる巻きにされた私の足首と、手にした松葉杖に目をやると、蔑むように言った。
「よくできた芝居だな。俺のためなら、手段を選ばないってわけか」
私が口を開くより先に、背後から甘ったるい女の声がした。
「瑛司さんったら、もっとゆっくり歩いてよ、私歩けないってば」
その女・麻生玲奈(あさお れいな)の腕には丁寧に巻かれた包帯が見える。
「もう、あなたのせいだからね。変な体勢の方が気持ちいいなんて言うから、こんな怪我しちゃって、病院まで来る羽目になったんじゃない……」
私はまた胸が沈み込むのを感じた。鼻の奥がつんと痛み、涙がこぼれそうになる。
赤くなった私の目を見ても、瑛司には少しも心を痛める様子がなかった。
どこまでも底の見えない嘲りを浮かべて言う。
「どうした、早坂さん。芝居がすっかり癖になったのか?自傷芝居だって、毎回使えるわけじゃないんだぞ。
ああ、そうだ。ただの足首の骨折なら、そこまで大事にする必要もないんだぞ。あまり自分を甘やかすなよ」
言い終えると、瑛司は玲奈を抱き寄せるようにして、親しげに去っていった。
私は瑛司の後ろ姿をいつまでもぼんやりと見つめながら、これほど長く愛してきた男が、どうしていつの間にか腐り果ててしまったのか分からずにいた。
ちょうどそこへ友人が急いで駆けつけ、ぼんやりしている私に気づくと、私の視線をたどって言った。
「あれ、桐生じゃない。あのクズ、記憶喪失になったからって、あそこまで女遊びする必要ある?またすぐ別の女に乗り換えて」
「多分、それが彼の本性なんでしょうね」
私は自嘲するように言った。
翌日、まだ目も覚めきらないうちに、ドアの外から騒がしい物音が聞こえてきた。
ドアを開けてみると、なんと瑛司が玲奈を家に連れ込んでいた。
玲奈は、花や草の匂いが苦手だと言い出した。
すると瑛司は、私が長年大切に育ててきた蘭を、そのままドアの外へ放り投げた。
ガシャンという音とともに植木鉢は粉々に割れ、土があたり一面に散らばった。
瑛司は振り返って私が立っているのに気づいたはずなのに、まるで見えていないかのように振る舞った。
そして玲奈には、蕩けるような甘い声で言う。
「何かしたいなら俺を呼べよ。手を怪我でもしたら大変だ、痛いなんて泣きつかれても俺は知らないからな」
「本当に知らないなんて言うつもりなの?」
二人はじゃれ合うように口づけを交わした。私はまるで、そこにいない透明な存在のようだった。
息を弾ませながらようやく体を離すと、瑛司はこちらを振り向いて言った。
「早坂さん、まだ引っ越してなかったのか?さっきの植木鉢みたいに、俺の手で放り出されたいのか?」
床に散らばった鉢のかけらと、芝居に酔いしれる瑛司の姿を前に、私は吐き気を覚えた。
「今すぐ出ていくわ。二人とも、続けてどうぞ」
昨夜、友人が家まで送ってくれた際、ついでに荷造りも手伝ってくれた。私の持ち物なんて、小さな箱一つにすべて収まってしまった。
瑛司は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「新しい部屋の住所はもう送っておいたから。俺が気が利かないなんて言わせないよ」
部屋を用意したのも、自分が女遊びに飽きた時にすぐ私を見つけられるようにするためにすぎない。
それなのに、まるで自分が善人であるかのように振る舞う。
本当に、白々しい。
私は立ち止まらなかった。振り返ることもしなかった。
外に出た途端、背後でドアがバタンと閉まった。中の二人は、もう待ちきれなかったのだろう。
玄関先で、瑛司を訪ねてきた友人たちと鉢合わせした。
「あれ、早坂じゃないか。もう出ていく気になったのか?」
「あんなに長い間まとわりついてたのに、簡単に諦められるのかよ?また駆け引きの小細工じゃないだろうな」
「瑛司は素直な子が好みなんだよ。お前みたいなタイプじゃ、うまくいくわけないだろ」
彼らは口々に、休む間もなく言い立てた。
「まさか私が、彼とこれ以上関係を続けることを望んでるとでも思ってるの?」
その場にいた全員が笑い出した。私が強がっているだけだと思ったのだろう。
私は彼らを無視して続けた。
「これからは、二度と邪魔しに来たりしないから。彼にはどうか、思い通りの人生を送ってほしいわね」
第3話
瑛司と出会ったのは、あるチャリティー活動の場だった。
彼は外科医として多忙を極め、いつだって一本の電話で手術へと呼び戻されてしまう。最後まで二人でゆっくり過ごせたデートなど、数えるほどもなかった。
それでも、何度途中で置き去りにされても、私は「仕事だから」と自分に言い聞かせて彼を理解しようと努めてきた。
不満を口にしたことなど、一度もない。
生活面でも仕事面でも、恋人としてできることはすべてやってきたつもりだ。
婚約したあの日、私は彼こそが最良のパートナーであり、誰よりも近しい恋人だと信じて疑わなかった。
だが今になってようやく分かった。瑛司は平凡な暮らしを嫌い、刺激ばかりを渇望していたのだ。
だから記憶喪失のフリまでしたということなのだろうか。
瑛司の友人たちを前にして、私は困惑と冷ややかさの入り混じった、いくつもの視線を向けられた。
どうしてこんな仕打ちをするのかと、思わず問い詰めそうになった。私は誰に対しても、あれほど誠実にしてきたはずなのに。
けれど結局、何も口にはしなかった。
その時、背後のドアが開いた。
瑛司は上着のボタンを無造作に外し、キスマークだらけの首筋をあらわにしている。何が起きていたかなど、それ以上は見なくても分かる。
そして、手にしていた生理用品を私のスーツケースの上に押し付けた。
「トイレに落ちてたぞ。持って帰れよ、気持ち悪い」
私は口の端を上げて笑った。
「あなたの彼女には要らないものなの?せいぜい頑張って、早く彼女を妊娠させたら?じゃないと、毎月これを見ることになるわよ。
それと、私はもう出ていくんだから、これでお互い縁はキッパリ切りましょう。今後は口の利き方に気をつけて。じゃないと、うっかり平手打ちしちゃうかもしれないから」
瑛司の顔に、言いようのない動揺が浮かんだ。
こんなにも冷ややかな私の表情を、瑛司は一度も見たことがなかったのだ。
長年の私は、いつだって優しく、見返りを求めず尽くす女だったのだから。
瑛司の目に、かすかな焦りがよぎった。
「日和、俺は……」
友人たちが笑いながら話を遮ると、瑛司はすぐに言い直した。
「分かったよ、ちゃんと頑張るさ。お前も早くいい人を見つけて、無駄に未練を引きずるなよ」
私は笑って言った。
「早く戻ったら?彼女、機嫌を損ねちゃうわよ」
予想していたような取り乱しようが見られないことに、瑛司はきっと私の異変を感じ取ったはずだ。
だが瑛司には、私がすでに彼の演技に気づいているとまでは、想像もつかないだろう。
友人たちは瑛司が余計なことを口走るのを恐れてか、慌てて彼を家の中へ押し込んだ。
その後ろ姿を見つめながら、私は瑛司との関係がもう二度と元には戻らないのだと悟った。
二日後、瑛司は私たちが一緒に購入した新居まで来るよう言ってきた。
「お前が買った家電、全部確認しに来てくれ。現金に換算して返すから」
私は行かず、代わりに児童養護施設の住所だけを彼に伝えた。
「リストを送るから、ここに送ってちょうだい」
施設長の宮下多恵(みやした たえ)は昔からの知り合いで、どうしてまだ使えるものを手放すのかと、電話をかけてきた。
「結婚するはずだったんじゃないの?どうして全部いらなくなっちゃったの?」
「婚約者が死んだので、しばらく結婚はできなくなったの」
多恵は私を慰めながら、時間があれば顔を出してほしい、子どもたちがみんな会いたがっていると言った。
電話を切ると、私は大きく息を吐いた。
付き合ってきた何年もの間、私はほとんど毎日を瑛司のために生きてきた。
瑛司は潔癖症で、家は毎日掃除が欠かせない。仕事から帰った後は、隅々まで綺麗に掃除するのが日課だった。
彼は好き嫌いが激しく、外食が口に合わないため、いつも私が作った料理を届けていた。
ようやく今は、心置きなく体を休められる。子どものような大人の男の世話を焼く必要も、もうないのだ。
しばらく休養したら、海外の大学院に進学するつもりだった。
そこで会社に一度戻り、退職の手続きを済ませた。
手続きを終えたばかりのところへ、瑛司から電話がかかってきた。
瑛司はひどく苛立った様子で言う。
「お互い二度と連絡しないって話じゃなかったのか?なんで今さら、感謝の手紙なんて書かせるんだよ」
しばらく聞いてようやく分かった。以前、施設に送った家電の差出人欄に、瑛司の名前と住所を書いていたのだ。
多恵によれば、律儀な子どもがそれを覚えていて、こっそり感謝の手紙を書いたらしい。
「その桐生さんって、あなたの友達なんでしょう?迷惑かけてないといいけど」
私は笑って答えた。
「友達じゃないんです。ただ荷物の発送を手伝ってもらっただけで」
しばらくして、瑛司からまた電話がかかってきた。
「言っておくが、お前が何を企んでるにせよ、いい加減にしろよ!」
私が口を開くより先に、玲奈が甘えた声で言うのが聞こえた。
「瑛司さん、私といる時くらい、元カノのことなんて放っておいてよ。ちゃんと集中してよね!」
第4話
瑛司は苛立たしげに――
「もう二度と連絡してくるなよ!」
そう言い残すと携帯を放り出した。
私が電話を切ろうとした時、アプリの通知がポップアップした。
もう随分経つというのに、瑛司の家の防犯カメラのアプリから、私の管理権限がまだ外されていなかったのだ。
ちょうどいい。電話には音声が、カメラには映像が残っている。
画面に映る二人の絡み合う姿と、艶めいた声が、頭の中に容赦なく叩きつけられる。
「瑛司さん、手が痛いわ。あんまり無茶しないでよ」
瑛司は玲奈の耳を甘噛みしながら、低い声で言った。
「それは無理な相談だな。俺が辛い思いをするのを、黙って見てられるのか?」
玲奈は色っぽく笑った。
「そんなに人と離れられないなら、いっそ私と結婚しちゃおうよ」
だが瑛司は一瞬で表情を冷たくした。
「世の中には女なんていくらでもいる。たまに目先を変えて楽しむのはいいが、結婚となれば話は別だ。それは日和しかいない」
玲奈は唇を尖らせ、涙目になった。
「あなたのために、手がこんなになっちゃったのに。少しくらい、私を喜ばせてくれたっていいじゃない」
瑛司は鼻で笑った。
「甘い言葉ならいくらでも聞かせてやるさ。だが結婚の話だけはやめておけ。お前と俺は所詮、行きずりの関係だ。俺は愚かな女は好きじゃない」
玲奈は聞き分けよく彼の首に腕を回し、体を寄せた。
「そんな興ざめなこと言わないで。あなたの温もりを感じられれば、それでいいから」
一秒前まで私を愛していると口にしていた男が、次の瞬間には野獣のように玲奈へ襲いかかった。
二人は、私たちがかつて何年も暮らした家の中で、欲望のままに乱れ合った。
その映像と声が絶え間なく耳に流れ込み、頭の中が激しく鳴り響いた。
腹部に、引き絞られるような痛みが走った。
そして下腹部から、生温かい何かが流れ出す感覚がした……
かつてないほどの恐怖に襲われた。果てのない暗闇に、飲み込まれてしまいそうだった。
最後の力を振り絞り、私は歯を食いしばって救急電話をかけた。
救急隊員がドアを破って入ってきた瞬間、目の前が真っ暗になり、私は意識を失った。
……
目を覚ました時には、すでに病院のベッドの上だった。
携帯には、未読のメッセージが何件も届いていた。
【日和、どういうつもりだ?】
【俺にもう関わらないって言っておきながら、俺の同僚たちには、俺のせいで流産させられたなんて言いふらして。おかげで俺がどれだけ今悪い噂が立ってるのか分かってるのか?】
【女のくせに、恥ずかしくないのか?】
瑛司は自分がしていることを棚に上げるのは簡単でも、他人が自分についての悪い噂を口にするのは許せないらしい。
私は思わず問い返した。
【他人の口まで私に何とかしろと言うの?随分と都合のいい要求ね】
ほどなくして、友達申請が届いた。
アイコンはセクシーな女性のイラストで、すぐに玲奈だと分かった。
承認すると、玲奈はすぐさまメッセージを送りつけてきた。
【あんた、いっそ死んじゃえば?】
【瑛司さん、あんたのことなんてもう気持ち悪いって思ってるの、知らないの?】
【彼が愛してるのは私よ。私といると、今まで感じたことのない快感があるって言ってたわよ!体の相性がいいことが、恋を長続きさせる基本だって知らないの?】
【いい加減、恥を知りなさいよ。とっとと消えて】
罵倒を浴びせられても、私はただ淡々と返した。
【割れ鍋に綴じ蓋ってやつね。お似合いの二人で、末永くお幸せに。他の人に迷惑をかけないでね】
玲奈をブロックした後、私は病院で数日間、静養した。
体が回復すると、私は航空券を手配し、旅立つ準備を始めた。
出発の日になって初めて、それが瑛司の誕生日だと気づいた。
瑛司が「心を入れ替える」つもりだったという、あの日でもある。
もともと、プレゼントとしてペアの腕時計を注文していた。
ところがそれを受け取りに店へ立ち寄ったところ、瑛司が玲奈を連れて店を出てくるのに出くわした。
私の視線が二人の手首に注がれているのに気づき、瑛司は何か言い訳をしようとした。
「二人にあげるわ」
私は背を向け、その場を後にした。
瑛司は玲奈の手を振り払って私を追いかけようとしたが、玲奈に腕を掴まれた。
「瑛司さん、行かないで。別れる前の最後のデートでしょう」
なるほど、二人はここで、関係に終止符を打つ約束をしていたのか。
けれど、私にはもうどうでもいいことだった。
タクシーを拾って空港へ直行し、出国便の飛行機に乗り込んだ。
一方、瑛司は玲奈を見送った後、友人たちを連れて私の会社の前までやってきた。
長いこと待っても、私は現れなかった。
中へ入って捜そうとしたが、警備員に追い出された。
「何を騒いでるんだ、早坂さんならとっくに退職してるぞ!」