第1章
実家へ連れ戻されてからの10年間、私・高村渓音(たかむら けいと)は偽令嬢の高村静(たかむら しずか)と、本当の姉妹のように親しく過ごしてきた。
母でさえ、「あんたのことを一番大切にしてくれているのは、静なのよ」と言っていた。
私はかつて誓った――この命に代えてでも、このかけがえのない4人家族を守り抜くと。
姉の静が脳動脈瘤の破裂で緊急手術室へ運ばれた時、私はオフィスで、淡々と手術シミュレーターを使い、基本的な縫合動作の練習をしていた。
画面の中では、ロボットアームが正確に針を通し、糸を引いていく。
その動きは、まるで一つの芸術作品のように完璧だった。
数分後、恋人の梶原猛(かじわら たけし)がオフィスのドアを勢いよく開けて飛び込んできた。
そして私を見るなり、声を荒らげた。
「渓音!静さんが危ないんだ!彼女を救えるのは、君の微細剥離術だけなんだ。病院中の専門医が、みんな君を待ってる!手術できる時間は、もう1時間も残ってない!」
彼は期待を込めた目で私を見つめた。
私は国内で、このレベルの手術を行える唯一の医師だった。
そして私の両手は、「神の手」と呼ばれるほど高く評価されていた。
それでも私は、ただ淡々と「そう」とだけ返し、再び手術シミュレーターの操作に戻った。
父と母はほぼ同時にオフィスへ駆け込んできた。
母は私の腕を強く掴み、泣きながら叫んだ。
「渓音!静はあなたのお姉ちゃんなのよ!それでも見殺しにするつもりなの!?」
私はそっと母の手を振りほどき、右手を二人の前へ差し出した。
数えきれないほどの医学的奇跡を起こしてきたその手は、今、かすかに震えていた。
私は静かに告げる。
「残念だけど……昨日から、特発性振戦の症状が出始めた。父さん、母さん。この手は、もう使い物にならないの」
第1話
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
3人の顔には、驚愕の色が浮かんだ。
彼らは、私の右手をただ見つめていた。
そのわずかな、けれど致命的な震えは、トップクラスの外科医にとって、医師生命の終わりを告げる宣告に等しいものだった。
母は唇を震わせ、信じられないものを見るような目で尋ねた。「ど、どうして……?昨日までは何ともなかったじゃない!ただ疲れてるだけなんじゃないの?」
「原因は分からない」
私は手を引っ込め、白衣のポケットに入れた。
「もしかしたら……運命なのかもしれないわね」
「運命?」
父は眉をひそめ、責めるような口調で言った。
「渓音、くだらないことを言うな!お前は……まだ私たちを恨んでいるのか?」
私は答えなかった。ただ、再び手術シミュレーターへ視線を戻した。
18歳の時、私は田舎から高村家へ連れ戻された。
そこで初めて知った。
高村家が18年間、大切に育ててきた娘――静は、本当の娘ではなかったのだ。
そして、本当の高村家の娘は、私だった。
私を育ててくれた義父母は、早くに亡くなった。
幼い頃から生活は苦しく、高村家へ戻った時の私は、ひどく臆病で、自分に自信を持てなかった。
そんな私に、一番温かく接してくれたのが、静だった。
彼女は私に礼儀作法を教え、綺麗な服を買ってくれた。
どんな時も私の味方をしてくれて、
「私たちは本当の姉妹なんだから、遠慮しないで」
そう言ってくれた。
父と母も言っていた。
「静も私たちの娘だ。どちらも大切な子供に変わりはない」
静の実家があまりにも貧しかったため、両親は彼女を不憫に思い、そのまま高村家に残して、2人の娘を一緒に育てることにしたのだ。
私は彼らに、そして静にも感謝していた。
必死に勉強して、彼らの誇りになろうと努力した。
この4人家族を、何があっても守り抜くと誓った。
あの時までは……
母は、私が黙り込んでいるのを見ると、突然涙をこぼした。
そして、私に向かって叫んだ。
「渓音!あんた、まだ根に持ってるんでしょ!
私たちが静を少し可愛がったからって、それを恨んで……今、あの子を見殺しにするつもりなの!?
静があんたにどれだけ優しくしてくれたか、忘れたの!?
あんたが夜遅くまで勉強していた時、誰が毎日体を気遣って栄養のあるものを作ってくれてたと思ってるの!」
その言葉に、私の胸は一瞬、鋭く締めつけられた。
猛は慌てて母を支え、宥めるように声をかけた。「おばさん、落ち着いてください。渓音はそんな人じゃありません」
そう言ってから、彼は私へ向き直った。その瞳には、深い悲しみが浮かんでいた。
「渓音、君が今までつらい思いをしてきたことは分かってる。でも、静さんには何の罪もないんだ。
自分の感情だけで、医者としての使命を忘れるなんて……君らしくないよ」
父は普段、品位を重んじる大学教授だった。けれど今は目を赤くし、掠れた声で訴えた。「渓音……たとえ手が使えなくても、手術室に入って指示を出すだけでいい!静はお前の姉なんだ。目の前で死なせるわけにはいかないだろう!」
それでも私は表情を変えなかった。
ただ、手元の機器を静かに操作し続けた。
とうとう母は崩れ落ちた。
その場に膝をつき、声を上げて泣き始めた。
「どうして……どうして私は、こんな冷たい子に育ててしまったの!静はあんなに優しくて、いつもあんたに譲ってくれていたのに……
あんたは今……今、あの子を死なせようとしているの!?」
母の泣き声はあまりにも悲痛だった。
床を叩きながら泣き叫ぶ母の姿を見て、外にいた医療スタッフたちまで集まってきた。
疑いと軽蔑の視線が、次々と私に向けられる。
けれど私は、ただ小さく笑った。
「それも、あの人の運命なんでしょうね。私には、どうすることもできないわ」
そう言って、私は再び椅子に座り、手術シミュレーターの操作レバーを握った。
画面の中で、ロボットアームが再び動き始めた。
私は全神経を集中させる。まるで、外で起きているすべてのことなど、自分とは何の関係もないかのように。
そんな私の冷たい姿を見て、父の体がぐらりと揺れた。
猛は私を見つめていた。その表情には、失望の色が浮かんでいた。
彼は深く息を吸い込み、何か大きな決意を固めたようだった。
「おじさん、おばさん……もう彼女に頼むのはやめましょう」
彼は父と母に向き直り、力強い声で告げた。
「僕にやらせてください」
第2話
猛が名乗り出た瞬間、両親の目に再び希望の光が灯った。
「猛くん……ほ、本当にできるの?」
母は感激したように、彼の手を強く握った。
猛は床に座り込んでいる両親に目を向け、それから私へ視線を移した。
そして、まるで人の痛みに寄り添う聖人のような表情を浮かべ、沈痛な声で言った。
「渓音が手を出したくない気持ちは、理解しています。何しろ彼女は『神の手』という名声を背負っている。失敗なんて許されないんです。
でも……僕には、静さんが死んでいくのを、ただ黙って見ていることなんてできません!」
一見すると、彼は私を思いやっているように聞こえる。
けれど実際には、私を「自分の名声を守るために人の命を見捨てる人間」として、世間の前に晒したのだ。
騒ぎを聞きつけて集まってきた同僚たちの視線は、さらに冷たく、軽蔑に満ちたものへ変わっていった。
猛は両親へ向き直り、もう一度強く言った。
「おじさん、おばさん、どうか僕を信じてください!
渓音の微細剥離術については、彼女が行った手術にすべて立ち会ってきました。理論も、その本質も、頭の中に叩き込んであります。
どうか僕に……従来の術式と渓音の理論を組み合わせて、静さんを救うために、命を懸けた挑戦をさせてください!」
「よく言ってくれた!」
父は感極まったように涙を流しながら言った。
「猛くん……もし静を救ってくれたら、我々は……高村家の財産の半分を、お前に渡す!」
その言葉を聞いた瞬間。
それまで黙っていた私は、ゆっくりと顔を上げた。
喜びを隠せない両親。そして、正義を振りかざすような顔をしている猛。
その姿を見つめながら、私は心の中で静かに計算していた。
高村家の財産の半分、少なくとも20億円以上。
ただ……
私はゆっくり立ち上がり、猛を見据えた。
そして、冷たい笑みを浮かべる。
「私の理論を使う?私の許可は取ったの?」
猛の表情が一瞬固まった。けれどすぐに、痛ましそうな顔を作って私を見る。
「渓音……こんな時に、まだそんなことを言うのか?今は人を救うことが先だろ!人を救うことと、特許は別問題だ」
私は淡々と手を差し出し、はっきりと言った。「私の許可なくその理論を使って手術をするなら、あなたを徹底的に追及する。二度と白衣を着られないようにしてあげる」
「お前……!」
猛は怒りで顔を青ざめさせた。
父はさらに激昂し、全身を震わせながら私を指差した。
「高村渓音!お前は本当にどうかしている!金や特許のために……姉の命まで見捨てるのか!?」
私は冷たい目で父を見つめた。まるで、知らない人間を見るように。
「早く決めてください、患者の状況はもう危ないです!」
看護師の声がこちらに届いてきた。
時間は一秒ずつ過ぎていく。周囲のざわめきはどんどん大きくなっていた。
それでも私は、焦る様子など一切見せなかった。
「……分かった」
ついに父は歯を食いしばり、私の条件を受け入れた。
「お前が許可を出すなら、すぐに弁護士を呼ぶ。私名義の株式の半分をお前に譲渡する」
私は小さく笑った。
そしてポケットから録音ペンを取り出し、録音ボタンを押した。
「お父さん、もう一度言って。自分の意思で、高村グループの株式の半分を、私の特許使用料として譲渡するって」
父は怒りで顔を真っ赤に染めた。それでも屈辱を飲み込み、同じ言葉を繰り返した。
私は満足したように録音ペンをしまい、それから猛へ視線を向け、静かに頷いた。
「行って。あなたの手が、私の手よりも安定していることを願っているわ」
そう言い残し、私は部屋を出た。
両親から向けられる嫌悪の視線も、猛の失望した眼差しも、すべて背中で受け止めながら、私は一度も振り返ることなく、出ていった。
家には帰らなかった。
私は病院の向かいにあるカフェへ入り、最も苦いブラックコーヒーを注文した。
大きなガラス窓越しに、手術室がある建物の灯りが見える。
彼らは、望んだ結果を手に入れた。
そして――私も同じだった。
第3話
その後数日間、私は自ら休暇を取った。
【本物の令嬢が偽物の令嬢を見殺し】【悪辣な妹・高村渓音】【恩を仇で返す女】――そんなワードが、次々と検索トレンドに上がった。
私の生い立ちは、ネット上で根掘り葉掘り暴かれていった。
ネットユーザーたちは、「田舎から戻ってきた娘が、嫉妬から優しい姉を陥れようとしている」という、ありきたりで下劣な筋書きを勝手に作り上げた。
静のSNSアカウントも掘り起こされ、そこには彼女が私にどれほど優しくしてきたかという記録が並んでいた。
そこに添えられた優しい言葉の数々が、かえって私という人間を、より醜悪に見せていた。
私はスマホを見ることもなく、ただアパートに閉じこもり、古びた写真立てを何度も何度も磨いていた。
写真立ての中には、穏やかで知的な雰囲気をまとった中年の男性が写っている。
私の恩師、周防文海(すおう ぶんかい)教授だった。
3日後、ニュースが津波のように押し寄せてきた――
【一途な恋人が緊急手術を行い、恋人の姉を奇跡の救出】
【新たな神、誕生!梶原猛先生、超高難度の脳手術に成功!】
報道の中で、猛は英雄として祭り上げられていた。
彼はカメラの前で、深い感情を込めるように語った。「僕は、やるべきことをしただけです。高村渓音は僕の最愛の人です。彼女の姉は、僕にとっても大切な姉ですから」
その発言は、妹である私の冷酷さを、さらに際立たせた。
ネット上での私への罵声は、ついに頂点へ達した。
そして、さらに大きなニュースが飛び込んできた。
国内最大手の医療機器メーカーである大智医療会社が、猛との戦略的提携を正式に発表したのだ。
改良版微細剥離術と、それに関連する手術器具の共同開発・普及を進めていくという。
1週間後、院長から電話がかかってきた。
その口調は、拒否を許さない命令そのものだった。
「高村渓音。明日の午前9時、病院で市内の脳神経外科専門医による合同検討会を開催する。全世界に向けて生中継も行う予定だ。君はこの技術の特許所有者なんだから、必ず出席しなさい」
これは招待ではなく、呼び出しだ。
彼らは私に、猛の成功をこの目で見届けさせたいのだ。
翌日、私は時間通りに病院の国際会議センターへ向かった。
会場には、市内の脳神経外科専門医や各メディアの記者が一堂に集まり、無数のフラッシュが絶え間なく焚かれていた。
会場へ足を踏み入れた瞬間、私は目を疑うような光景を目にした。
猛と車椅子に座る静が記者たちの中心にいて、その傍らには私の両親も寄り添っていた。
本当の家族は、あちらだった。
会議開始の直前、静が突然カメラに向かって泣き崩れた。
「皆さん、本当にすみません。貴重なお時間をいただいてしまって。でも、今日どうしても明らかにしなければならない真実があります」
彼女は震える声で続けた。
「私の今回の動脈瘤破裂は、事故なんかじゃありません……!ずっと……ずっと妹の高村渓音に、毒を盛られていたんです!」
その一言で、会場に激震が走った。
ざわめきが広がり、すべてのカメラが一斉に私へ向けられる。
静はさらに涙をこぼし、両親の手を握りながら、嗚咽混じりに訴えた。
「あの子が高村家に戻ってきた日から、ずっと私を傷つけ、追い出そうとしてきました!私はずっと耐えてきたんです。
育ててくれた父さんと母さんを悲しませたくなくて、家族を壊したくなくて……でも、まさかあの子がここまで残酷なことをするなんて……!私の命まで奪おうとするなんて!」
猛はそんな彼女の肩にそっと手を置き、まるで真実を語る勇気を与えているかのようだった。
そして数枚の検査結果を取り出した。
「僕はもっと早く言うべきでした。でも、渓音の名誉を傷つけることになると思って、黙っていたんです。しかし今回の手術を通して、確かな証拠を手に入れました」
彼は声を震わせながら言った。
「静さんは、慢性的な神経毒を盛られていたんです!もう、渓音が静さんを傷つけるのを黙って見ていることはできません!」
生配信のコメント欄は、一瞬で炎上した。
#本物の令嬢が偽物の令嬢に毒を盛った
その言葉は、ロケットのような勢いでトレンド1位へ駆け上がった。
私は会場の入口に立ち、無数の嫌悪に満ちた視線にさらされていた。
記者たちの質問が次々と飛んでくる。
「高村先生、本当にお姉さんに毒を盛ったんですか?」
「なぜそんなことをしたんですか?嫉妬が理由ですか?」
「あなたに医師を続ける資格があると思っているんですか?」
私は誰にも答えず、実の両親のもとへ歩いていった。
そして彼らを見つめる。
声は、わずかに震えていた。
「お父さん、お母さん、あなたたちも……私がそんな人間だと思っているの?」
私の問いかけに、会場は一瞬だけ静まり返った。
母は泣きながら言った。「渓音……私たちは、あんたに何度も機会を与えてきたんだ……静が証拠を出したのよ……私たちは……本当にあなたに失望した……」
父も苦しそうな表情を浮かべ、私から目を逸らした。
「見ろよ。本当に悪い人間っていうのは、親にすら見放されるんだな」
「人の皮を被った悪魔だ。こんなことをするくらいなら、最初から高村家に戻すべきじゃなかったんだ」
「こんな奴、絶対にもう医師なんか続けさせるな!」
悪意の言葉が耳に突き刺さる。
私はスポットライトの下で、ただ一人立ち尽くしていた。まるで、世界中から有罪判決を受けた罪人のように。
そのとき、制服姿の警察官数名が会場の外から入ってきた。
彼らは厳しい表情で、声を張り上げた。
「通報を受けました。この場に、故意に毒物を投与した人物がいるということですが……通報したのはどなたですか?」
その場にいた全員の視線が、私へ集まった。
猛も静も、思わず口元を緩める。
警察官の鋭い視線と、会場を包む死のような静寂の中で、私はゆっくりと手を挙げた。
「通報したのは私です」