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友達以上、恋人未満だった私たち
菅野澪(すがの みお)には、加賀隼人(かが はやと)という幼なじみがいる。自由奔放で、恋愛にもどこか不真面目なところがある隼人は、澪とこういう約束を交わした。 ――30歳になっても、お互いが独り身だったら結婚しよう。 小さい頃から、澪がずっと隼人に密かな想いを寄せていたが、彼は知る由もない。だから、あの約束を交わした時も、隼人はいつものように軽口を叩く調子で笑っていた。 「そんなに心配しなくていいって。結婚なんて、ただの形だ。そのあとも、お互い好きに遊んでればいい」 ところが、澪が25歳のとき、菅野家の会社が倒産した。 債権者から、身を売ってでも借金を返せと迫られ、追い詰められていた澪を救ったのは、隼人だった。家族の反対を押し切り、彼は5年早く、あの約束を果たした。 それから5年。澪のために、隼人は遊び歩くことをやめた。彼女を大切にし、周囲から羨まれるほど愛情深く接してくれた。 そして――2人が30歳を迎えた。 澪は長年胸に秘めてきた想いを、今度こそ隼人に伝えようと決意する。 しかしその矢先、彼女は信じがたい光景を目にした。 同窓会の帰り、本来なら迎えに来てくれるはずだった隼人が、大学時代のルームメイト・松永瑠奈(まつなが るな)を抱きしめ、我を忘れたように口づけていた。 「誰かを愛するのって、どういうことなのか……ようやく分かったんだ。だから……もう一度、俺のそばに戻ってきてくれないか?」
チャプター (1)
第1章
菅野澪(すがの みお)には、加賀隼人(かが はやと)という幼なじみがいる。自由奔放で、恋愛にもどこか不真面目なところがある隼人は、澪とこういう約束を交わした。
――30歳になっても、お互いが独り身だったら結婚しよう。
小さい頃から、澪がずっと隼人に密かな想いを寄せていたが、彼は知る由もない。だから、あの約束を交わした時も、隼人はいつものように軽口を叩く調子で笑っていた。
「そんなに心配しなくていいって。結婚なんて、ただの形だ。そのあとも、お互い好きに遊んでればいい」
ところが、澪が25歳のとき、菅野家の会社が倒産した。
債権者から、身を売ってでも借金を返せと迫られ、追い詰められていた澪を救ったのは、隼人だった。家族の反対を押し切り、彼は5年早く、あの約束を果たした。
それから5年。澪のために、隼人は遊び歩くことをやめた。彼女を大切にし、周囲から羨まれるほど愛情深く接してくれた。
そして――2人が30歳を迎えた。
澪は長年胸に秘めてきた想いを、今度こそ隼人に伝えようと決意する。
しかしその矢先、彼女は信じがたい光景を目にした。
同窓会の帰り、本来なら迎えに来てくれるはずだった隼人が、大学時代のルームメイト・松永瑠奈(まつなが るな)を抱きしめ、我を忘れたように口づけていた。
「誰かを愛するのって、どういうことなのか……ようやく分かったんだ。だから……もう一度、俺のそばに戻ってきてくれないか?」
第1話
隼人の腕の中にいる瑠奈の表情は見えない。ただ、彼女がすすり泣く声だけが聞こえていた。
「でも……澪はどうするの?私、澪を傷つけたくない……」
「そんなの考えなくていい。あいつは、俺が誰かを大事にするための実験台みたいなもんだ。本当に愛してるわけじゃない。
あの時、お前が何も言わずに姿を消したから――もう二度と、お前と一緒にはいられないんだと思った。だから澪と付き合った。
瑠奈。お前さえ戻ってきてくれるなら、俺はいつだって澪と別れられる」
その言葉が、澪の胸を深く切り裂いた。
隼人が昔から自由奔放な人間だったことは、澪が誰よりもよく知っていた。だからこそ、ずっと彼に想いを寄せながらも、その気持ちを口にすることはできなかった。
せめて友人として、ずっとそばにいられればいい。
そう思っていた。
かつて隼人が何気なく口にした30歳の約束だって、本気にしたことなど一度もなかった。
それでも、菅野家の会社が倒産したとき、追い詰められていた澪に手を差し伸べ、あの約束を5年も早く果たしたのは、隼人だった。
だから澪は信じてしまった。
長年、胸の奥に隠し続けてきた恋が――ようやく叶ったのだと。
けれど、それは大きな間違いだった。
彼女が叶ったと信じていた恋は、隼人が本当に愛する女に自分の想いを証明するための、ただの手段にすぎなかった。
隼人は澪を利用した。自分が遊びをやめ、たった一人だけを愛する男になれるのだと――瑠奈に証明するために。
その瞬間、澪は悟った。
この世に、自分ほど滑稽な女はいないのだと。
「だめだよ、隼人。澪はあなたのことが好きなんだもの。彼女と別れたら、私だって罪悪感を感じてしまう」
隼人の思いを受け止めようとせず、瑠奈は突然、彼の胸を突き放した。「やっぱり、私じゃあなたにはふさわしくない。隼人と澪こそお似合いだもの」
その声には、どこか苦しげな響きがあった。
「何言ってるんだよ、瑠奈。俺が愛してるのは、お前だけだ」
隼人がそう言った瞬間――瑠奈の身体がぴたりと強張った。彼女の視線が、ふいに隼人の向こうへ向く。
その先には、澪がいた。
「……澪?」瑠奈は顔色を変えた。「誤解しないで……隼人は酔ってて、私をあなたと間違えてるだけなの」
慌てたように取り繕う声は、わずかに震えていた。
隼人も瑠奈の視線を追い、その先に立つ澪を見た。
目が合った瞬間、彼の表情がわずかに強張る。そこには、隠しきれない戸惑いと、ほんの少しの後ろめたさが浮かんでいた。
だが、すぐに隼人の表情は変わった。
――先ほど自分が口にしたことは、何一つ間違っていない。
きちんと澪に説明すれば、瑠奈も余計な罪悪感を抱かずに済む。そして瑠奈は、自分のもとへ戻ってくれるかもしれない。
そう考えると、隼人は堂々と澪を見つめた。
「澪、聞いてたならちょうどいい。瑠奈に説明してくれ。俺たちは最初から――」
「澪!」
隼人の言葉を遮ったのは、瑠奈だった。
「私、あなたを傷つけるつもりなんてなかったの。わざとこのタイミングで帰国したわけでもないし、隼人とよりをもどすつもりもない。私はただ……」
言葉を続けながら、瑠奈はひどく取り乱しているように見えた。まるで、澪に責められることを恐れているかのように。
「とにかく……もう二度と隼人の前には現れないから」
それだけを言い残すと、瑠奈は逃げるようにその場を去っていった。
残されたのは、呆然とする隼人と、まだ現実を受け止めきれずにいる澪だけだった。
隼人は澪の前まで歩み寄る。その身体から放たれる圧迫感に、澪は思わず息を呑んだ。
「……まさか、瑠奈が海外へ行ったのは、お前が何か言っていたから?そうなのか?」
澪は、隼人の瞳に宿る冷たい光を見た。喉の奥が、ひどく乾く。
これまで、隼人と瑠奈が付き合っていたことさえ知らなかった。ただ以前、瑠奈から隼人のことについて尋ねられたことがある。
――隼人は今まで何人くらいの彼女がいたのか。
澪は、その問いに正直に答えただけだった。
隼人の恋人は数え切れないほど多かった。それは変えようのない事実だ。
けれどその後、瑠奈は海外へ渡ってしまった。
そして今になって、澪は初めて知った。
――2人は、かつて恋人同士だったのだと。
けれど、そんなことはもうどうでもよかった……
隼人は澪の返事を待とうともせず、瑠奈のあとを追うように、その場を飛び出していく。
澪は遠ざかっていく彼の背中を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
スマホを取り出し、電話を2本かけた。
1本目は、加賀グループの人事担当に退職の旨を伝えるため。
もう1本は、恩師から以前受けていた仕事の誘いに返事をするため。澪は川南市へ向かい、教鞭を執ることを決めた。
すべてを済ませると、澪は一人で家へ戻った。そしてその夜のうちに、荷物をすべて片づけた。
翌朝。
荷物をまとめ、タクシーを呼ぼうとしたところで、隼人が帰ってきた。
床に並んだいくつものバッグとスーツケースを目にし、彼は一瞬だけ足を止める。「もう片づけなくていい。この家は澪にやるよ」
そう言うと、隼人は眉間を押さえ、疲れたように息を吐いた。「俺たち、離婚しよう」
「そんな必要はないよ」澪は静かに答えた。「だって私たち、最初から籍を入れてないでしょ?」
「……え?」
あまりにも信じられないという顔をする隼人を見て、澪は苦笑した。
――隼人は、結婚したつもりでいたのだろう。
彼が澪と結婚すると言ったのは、あくまでも口約束だった。
この5年間、澪は何度も婚姻届を出そうと持ちかけた。そのたびに隼人は、何かと理由をつけて先延ばしにしてきた。
「まあ、今さら面倒な手続きがなくて、むしろよかったじゃない」
隼人はそれ以上気にする様子もなく、手にしていたブリーフケースを差し出した。「これ、受け取ってくれ。別れた後でも、困ったことがあったら、俺が守るよ」
真剣な口調だった。
その言葉を聞いた瞬間、澪の脳裏に5年前のことがよみがえる。
菅野家の会社が倒産したあと、澪は債権者から執拗に追い詰められた。
それだけではない。事情を知った同業界の御曹司たちまで、弱みにつけ込むように澪へ近づいてきた。断っても断っても、品のない誘いが後を絶たなかった。
そんな彼らを追い払ったのが隼人だった。そして彼は、みんなに言い放ったのだ。
――澪は俺がもらう。誰にも手出しはさせない。
だからこそ澪は信じた。
結婚式はない。婚姻届も出していない。それでも隼人と一緒にいられるなら、それでいいのだと。
自分の想いを飲み込み、プライドさえ捨てて、彼のそばで5年を過ごしてきた。
けれど――そんな関係も、今日で終わる。
澪は自嘲するように笑い、ブリーフケースを受け取り、中身を確認する。
キャッシュカードに、車のキーといくつもの不動産の権利書。そして、加賀グループの株式譲渡契約書まで入っていた。
澪は笑いそうになる。
――隼人は、自分の財産の半分ほどを差し出している。本当に大盤振る舞いだ。
「これって……私のことも、今までの女たちと同じように、お金で片付けようとしているの?」
澪は中身を取り出し、隼人を見つめた。
隼人はすぐには答えなかった。澪の表情に傷ついたようなものを見て取ったのだろう。しかし、何をどう説明すればいいのか、彼自身にも分からないようだった。
確かに、隼人はこれまで付き合ってきた女性にも金を惜しまなかった。だが、ここまでのものを渡したことは一度もない。
澪だから、渡すのだ。
しばらくの沈黙のあと、隼人はかすれた声で言った。
「……澪は彼女たちと違って、俺にとって一番大切な友達だから。
俺たちの世界なんて、こんなもんだろ?一度関係を持ったからって、何かが変わるわけじゃない。そうだろ?」
澪の顔が少し青ざめていることに気づき、隼人は不安そうに喉を動かした。「……澪」
一瞬、言葉を選ぶ。
「俺たち、これからも友達だよな?」
澪は、かすかに口元をゆるめた。
――もう、友達には戻れない。
彼女はその言葉を口に出さず、静かに飲み込んだ。
人事部からは、退職手続きは早くても1週間ほどかかると言われている。
1週間後には、澪は隼人の会社を辞め、彼のそばから離れる。
「……私たちが友達のままでいたら、瑠奈は気になると思うけど」
澪は話を変えた。
隼人は、ようやく表情を緩めた。
「大丈夫。昨日、瑠奈とちゃんと話した。当時のことも、もう誤解は解けたよ。澪のせいじゃない。俺が今まで付き合ってきた女が多すぎて、瑠奈を不安にさせただけだ。瑠奈も、俺ともう一度やり直すって言ってくれた。ただ……1つだけ、澪に頼みたいことがある」
澪が首を傾げると、隼人は困ったように笑った。
「瑠奈がさ……澪は俺のことが好きなんじゃないかって、ずっと言うんだ。俺たちの間に何もないって、自分で確かめるまでは、安心して俺と結婚できないらしい。
だから、澪。説明してやってくれないか?俺たち、本当に何もないし、澪が俺のことが好きなわけないだろ?」
第2話
澪は目を伏せ、胸に広がる苦さをひとりで飲み込んだ。
――そうだ。どうして自分は、こんな自由奔放な男を好きになってしまったのだろう。
「……隼人」気づけば、澪はそう問いかけていた。「瑠奈のことが好きなら……どうして私と、あの30歳の約束をしたの?もし、瑠奈に『自分は誰かを愛せる』、『一人の女性だけを大切にできる』って証明したかっただけなら……私じゃなくてもよかったんじゃないの?」
「澪と約束したときは、まだ瑠奈のことが好きじゃなかったんだ」
それだけ言って、どこか軽い調子で笑う。
「澪は品があるし、しっかりしてる。奥さんにするなら、ピッタリと思ってた。それに、澪は俺の一番の親友だろ。もし瑠奈と一緒になれなかったとしても、澪は俺にとって最高の選択肢だったんだ。
それに、菅野家の会社が潰れたあと、澪にとっても俺以上の選択肢はなかっただろ?」
あまりにも冷静な分析だった。その言葉を聞いた瞬間、澪は息が詰まり、呼吸さえできなくなる。
――そういうことだったのか。自分は最初から、隼人にとっての「一番」ではなかった。愛する相手と結ばれないのなら、その次に選ぶ相手。
ただ、それだけ。
澪は何も言えないまま、隼人のあとをついていった。向かった先は、隼人と瑠奈がこれから暮らす家だ。
玄関に入った瞬間、澪は足を止める。リビングの壁一面に、隼人と瑠奈の写真が飾られていた。
肩を寄せ合う2人。
昨夜のうちに用意したとは思えないほど、部屋は温かな空気に満ちていた。
まるで5年という離れ離れになっていた時間など最初から存在しなかったかのように。
まるで、ずっと昔から夫婦だったかのように。
「澪、来てくれたのね」
2階から、瑠奈が嬉しそうに手を振った。
だが、その姿を見た途端、隼人の表情が変わる。
慌てて階段を上ると、隼人は彼女を抱き上げ、そのままリビングのソファまで運んだ。そして、ごく自然な仕草でスリッパを手に取る。
隼人は瑠奈の前にしゃがみ込み、裸足の足元にそっとそれを履かせた。
「そろそろ生理が来る時期だろ。冷えるから、素足で歩き回るな」
その言葉に、澪の胸が小さく跳ねた。
――もう隼人を愛さない。
そう決めたのに、こんな光景を目の前にすると、やはり胸が痛む。
「俺、コーヒーを淹れてくるよ」
瑠奈を気遣ったあと、隼人はそう言ってキッチンへ向かった。
二人きりになるための時間を、あえて作ってくれたのだろう。
隼人の姿が見えなくなると、澪は先に口を開いた。「瑠奈、私と隼人の間には、恋愛感情がないの。だから、2人が末長く幸せになれるよう、願ってるよ」
だが、瑠奈は鼻で笑った。
「隼人があなたに恋愛感情がないことくらい、私も知ってる。でも、澪。あなたは本当に、隼人のことを何とも思っていないって言えるの?」
隼人がいないこの場では、瑠奈の態度が刺々しかった。
「あなた、隼人のことが好きだったでしょう。大学のとき、酔って眠っていた隼人にキスしてたもの。私、この目で見たんだから!そんなことをしておいて、自分で気持ち悪いと思わないの?」
秘密を暴かれ、澪の瞳が大きく揺れた。思わず指先に力が入り、掌に爪が食い込む。
だが、すぐに痛みが意識を現実へ引き戻した。
「……隼人が好きだったけど、それはもう過去のこと。自分の気持ちを恥じるつもりもない」
一度、息をついた。
「あなたと隼人が両想いだと知った以上、2人の間に割って入るつもりはないよ」
「そう?けど隼人は今でも、あなたのことを一番大切な友達だと思ってる」
瑠奈の笑みが、さらに深くなった。その声には、隠そうともしない悪意が混じっていた。
「私はね、彼のそばに、私以外の大切な女がいるなんて絶対に嫌。だから――あなたのことを思い出すだけで、隼人が嫌悪感を抱くようにしないと」
言い終えた直後、瑠奈は、ためらいもなく自分の頬を強く叩いた。
乾いた音が、リビングに響く。
「澪……ごめんなさい。隼人を奪うつもりなんてなかったの……!」
瑠奈は泣きながら声を上げると、わざと身をよろめかせ、脇にあった花瓶へと倒れ込んだ。
次の瞬間。
――ガシャーン!
大きな音とともに花瓶が床に砕け散る。
瑠奈の身体に、鋭い破片がいくつも傷をつけて、白い肌が赤く染まった。
騒ぎを聞きつけ、すぐに隼人が駆けつけてくる。血を流す瑠奈を見た瞬間、隼人の瞳が大きく見開かれた。
「瑠奈!どうした!」
すぐさま駆け寄ると、隼人は彼女を抱き上げた。
瑠奈はその腕の中に身を縮めながら、赤く腫れた頬をわざと見せつける。「澪に……叩かれたの。それで、よろけて……花瓶にぶつかっちゃって……」
隼人の表情が、一瞬にして険しくなった。「澪。なんで瑠奈に手をあげた?」
鋭い目で、まっすぐ澪を見据える。
弁解を待っているのだ。
澪は目をそらさなかった。「私は彼女に手を上げていない。全部、彼女の芝居だよ」
その言葉を聞き、隼人の視線が瑠奈へと移る。腫れた彼女の頬を、じっと見つめた。
そして、何かを確かめるように、自分の手をその頬に重ねる。
――やはり、そうだ。
誰かが正面から瑠奈の頬を平手で叩いたのなら、指先の跡は顔の外側、つまり耳の方向へ伸びるはずだった。
だが、瑠奈の頬に残っている指の跡は違う。自分で手のひらを頬に当て、指先が上を向くようにして叩いたときに残る跡だった。
隼人は眉をひそめた。これは瑠奈の自作自演だと、もう分かっていた。
それでも、次の瞬間。
「……澪、瑠奈に謝ってくれ」
澪の呼吸が、一拍遅れた。隼人なら、瑠奈の嘘を見破れると信じていた。
一方、隼人の腕の中にいた瑠奈は、ほっと息をついた。そして澪にだけ分かるよう、勝ち誇った視線を向ける。
2人の視線がぶつかった。その瞬間、空気がわずかに張りつめる。
「ふっ」
不意に、澪が笑った。
「いいよ」
その直後、澪はゆっくりと瑠奈に歩み寄った。そして、誰も反応できないほどの速さで、瑠奈の無傷だった左頬を思い切り叩いた。
「あ……ごめんね。手が滑っちゃった」
頬を押さえて固まる瑠奈を、澪は淡々と見下ろした。それから視線を隼人へ向ける。
その声は静かだった。けれど、ひどく冷たくて鋭い。「謝ったけど。これで満足?」
返事を待つことなく、澪は背を向けた。
その背後で、瑠奈の泣き声がさらに大きくなる。
「澪!さすがにやりすぎだろ!」隼人の苛立った声も聞こえた。
けれど、澪は振り返らなかった。
瑠奈の手当てを終えた隼人が澪を見つけたのは、菅野家の旧邸だった。
澪は黙々と家具を拭いていた。
隼人の姿を見つけると、澪のほうから口を開く。
「今度は何?また瑠奈に謝罪してほしいの?」
そして、鼻で笑った。
「隼人。あなた、18歳の頃からいろんな女の人と遊んできたんでしょ。瑠奈のあんなお粗末な芝居、見抜けなかったなんて言わせない」
「もちろん見抜けていたよ」
しばらく沈黙したあと、隼人はようやく口を開いた。
「でも、瑠奈があんなふうにヤキモチを焼いてくれたのは、初めてだったんだ」
第3話
澪は、ひどく力が抜けるような感覚に襲われた。まるで、思いきり拳を振り下ろしたのに、柔らかい綿に受け止められてしまったようだった。
怒る気力すら、湧いてこない。
「……それで、わざわざ何をしに来たの?瑠奈の芝居を最後まで成立させるために、彼女の前で土下座でもして謝れっていうの?」
澪は少しだけ皮肉を込めて言った。
「……瑠奈を叩いたことは、水に流す」隼人は言いにくそうに視線をそらした。「でも……俺と瑠奈の恋愛の手助けをしてほしい」
澪は、しばらく言葉を失った。だが、隼人は至って真剣な顔で続ける。「瑠奈は、俺たちを試そうとしてるんだ。澪が俺たちのことを見ても何とも思わなかったら、俺たちの間には本当に何もないって、瑠奈も信じてくれるだろう」
リビングには、重苦しい沈黙が落ちた。
しばらくしてから、澪は小さく笑った。
「隼人。私のことを、2人の恋愛のスパイスか何かだと思ってるの?……ごめんだけど、そんなことに付き合う暇はない。瑠奈が、そこまで私の存在を気にするなら、私はあなたたちの前から消えるから……」
「消えるって……どこに?」隼人が慌てたように遮った。「澪、俺たち、ずっと友達でいるって約束しただろ」
澪は、伝えようと思った言葉を飲み込んだ。
――もう退職願を出した。1週間後には、この街を離れる。
本当なら、そのことを今ここで伝えてもよかった。
けれど、隼人の性格を澪はよく知っていた。
彼は時々、妙なところに執着する。今この場で退職のことまで話せば、何を言い出すか分からない。
余計な騒ぎは起こしたくなかった。
そう思い、澪は何でもないように表情を整えた。「私は、あなたと瑠奈の間に立ちはだかる壁みたいなものなんでしょう?だったら、壊したほうがいいんじゃない?このままでは、邪魔になるだけだから」
隼人は、その言葉に一瞬、黙り込んだ。
瑠奈が好きだ。けれど、澪を失いたくはない。自分の一番の理解者で、何でも話せる存在まで手放すつもりはなかった。
「……澪」隼人は、澪の問いには答えなかった。その代わり、珍しく弱ったような声を出す。「頼むから、俺を助けてくれないか?菅野家の借金を肩代わりして、俺はこの5年間、ずっと澪を守ってきただろ」
澪は黙って目を閉じた。
しばらくの沈黙のあと、「分かった」とだけ答えた。
隼人が、この5年間の恩を口にする以上、澪にはもう、断ることができなかった。
……
それから数日間、澪はまるで隼人と瑠奈の恋を引き立てるための、都合のいい脇役のように、2人の仲睦まじい姿を見せつけられ続けた。
かつては買い物など面倒だと言っていた隼人が、今では瑠奈のために丸一日付き合って街を歩く。
屋台で食べ歩きをし、ゲームセンターでは、クレーンゲームにまで付き合っていた。
そんな2人の姿を見ていると、澪はふと、高校時代のことを思い出した。
隼人と映画を観た帰り、店先に並んだクレーンゲームを見つけた澪が、「一緒にやろう」と、そう誘ったことがあった。
けれど隼人は、「ガキっぽい」と一言だけ残し、振り返ることもなく歩いていった。
瑠奈の隣で楽しそうに笑う今の隼人を見て、澪は自嘲するように笑った。
――そうか。
隼人の「好き」と「好きじゃない」は、こんなにも分かりやすいものだったのだ。
隼人は瑠奈に、数え切れないほどの宝石やアクセサリーを贈った。
中でも澪の記憶に残っているのは、瑠奈にスポーツカーを贈った日のことだった。
隼人が車のサンルーフを開けると、中には大量の花が入っていた。その直後、夜空へ無数の風船が舞い上がり、そこには大きく、隼人から瑠奈への愛の言葉が書かれていた。
それほどまでに瑠奈を大切にする隼人を見ているうちに、澪の中にあった恋心は少しずつ冷めていった。いつの間にか、胸の痛みさえほとんど感じなくなっていた。
……
1週間後。澪の退職手続きがようやく終わった。
もうすぐ、この街を離れられる。
そのための航空券を予約しようとしたが、隼人に退職の件をどう切り出すべきか迷っていた。
けれど、そんな澪の事情など知らない隼人は、突然彼女を山へキャンプに誘った。
澪は思わず顔を曇らせた。
幼い頃、澪は菅野家の恨みを買った者たちに山中へ連れ去られ、危うく命を落としかけたことがある。あれ以来、山はどうしても苦手だった。
それでも隼人は引かなかった。「なあ、澪。俺を助けてくれるって約束しただろ?今夜、瑠奈にプロポーズするつもりなんだ。頼む。これが最後だから」
結局、澪は断り切れなかった。こうして、3人は山へ向かった。
キャンプ場に着いた頃には、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。
それなのに、隼人は澪に薪拾いを頼んだ。
胸の奥に恐怖が湧き上がる。けれど澪はそれを必死に押し殺し、一人で暗い森の中へ足を踏み入れた。
しかし、彼女が戻った頃には、キャンプ場に誰もいなかった。車もない。
澪は呆然と立ち尽くした。慌てて隼人に電話をかける。だが、10回かけても、誰も出なかった。
そこでようやく、澪は悟った。
――自分は置いていかれたのだ。
全身から血の気が引いていく。木々を揺らす風の音。どこからともなく聞こえる葉擦れの音。
その一つひとつに、澪の身体は敏感に反応した。背中に冷たい汗が流れ、肌には鳥肌が立つ。
この場所はあまりにも辺鄙で、車を呼ぶことすらできない。
最寄りの道路までは、およそ10キロ。
しばらく考えた末、澪は地面に落ちていた太い枝を拾い上げた。
自分の身を守るための武器代わりに枝を握りしめ、スマホのナビを頼りに歩き始めた。
どれほど歩いたのか、もう分からない。足には血のにじむほどの靴擦れができていた。
それでも澪は歩き続けた。そしてようやく――
遠くに、街灯の光が見えた。
澪は大きく息を吐いた。道路まで辿り着き、配車アプリを開く。
ようやくタクシーを呼び、スマホを下ろした、そのときだった。
1台の黒い高級車が、ゆっくりと彼女の前に停まった。
助手席の窓が下りる。そこから顔をのぞかせたのは、瑠奈だった。「澪、遅かったじゃない。早く乗って」
楽しそうに笑う瑠奈の声を聞いた瞬間、澪の表情が固まった。
運転席にいる隼人も、当然のように彼女の惨めな姿を見ていた。けれど彼は、心配するより先に、隣の瑠奈へ向かって言った。「澪は子どもの頃、山で死にかけたことがあるんだ。それでも俺が、あえてあいつを山に置き去りにした。これで、俺が澪のことが好きじゃないって証明できるだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥にあったものが一気に崩れ落ちた。
苦しさと、怒り。どうしようもない悔しさ。
さまざまな感情が一度に押し寄せ、胸を満たしていく。
「隼人……」澪は涙を堪えながら口を開く。「友達にこんなことをするなんて……」
「ごめんって……ただの冗談なんだから」
澪の瞳に浮かんだ涙を見て、隼人の表情がわずかに揺れた。
記憶を辿ってみても、澪が人前でこんなふうに弱さを見せることは、ほとんどなかった。
――少し、やりすぎたかもしれない。
そう思った隼人が何か言おうとしたときには、もう遅かった。
澪は彼の返事を待たずに、到着したタクシーへ乗り込んだ。
家へ戻った頃には、すでに深夜だった。彼女は静かに荷物をまとめた。そして、翌日の航空券を予約する。
翌朝、澪がキャリーケースを引き、玄関を出ようとしたところで、ちょうど隼人と鉢合わせた。
「澪、今日、俺の家の食事会がある。付き合ってくれないか」
そこまで言ってから、隼人の視線が澪の足元へ落ちた。そして、彼女のそばにあるキャリーケースに気づく。
「……何だ、これ」彼は片手をキャリーケースの上に置いた。「どこへ行くつもりだ?」
第4話
「隼人には関係ない」
澪はキャリーケースを引き戻そうとした。けれど、びくともしない。
隼人はキャリーケースを押さえたまま、澪の目をまっすぐ見つめた。「昨夜のことは……俺が悪かった」
一瞬だけ言葉を切ってから、続ける。
「でも、お前だって瑠奈を殴っただろ。だから、これでおあいこってことにしないか?」
――ああ、やっぱり、まだ覚えていたのか。
隼人は昔から身内には甘い。恋人である瑠奈が殴られたのを、何もなかったことにするはずがないと思っていた。
あの山で自分を置き去りにしたのも、最初から報復のつもりだったのだろう。
澪は自嘲するように口元を歪めた。
「おあいこになったなら、私の荷物を放して」
澪は冷たく言った。
「もう、隼人と瑠奈のことには関わりたくない。今日の食事会に、私が行く理由もない」
隼人はわずかに目を見開いた。
澪とは、物心ついた頃からの付き合いだった。
加賀家の食事会に、澪が顔を出さなかったことは一度もない。
そもそも今日、隼人が澪を誘いに来たのも、昨夜のことを許してもらうためだった。
澪を山に置き去りにしたのは、さすがにやりすぎた。
そう思った隼人は、昨夜、瑠奈を家まで送り届けたあと、菅野家の前で一晩中、澪が出てくるのを待っていた。
「……瑠奈は孤児だろ」隼人は何かを思いついたように、すぐに言った。「いきなり家に連れて行ったら、親父たちがどう思うか分からない。瑠奈を紹介するのは、また別の機会にする。だから今日の食事会は、今までどおり俺とお前で行こう」
「だから、行かないって――」
澪が言い終える前に、隼人は彼女のキャリーケースを庭の中へ押し戻し、彼女の手を取った。
澪の言葉を聞く気もないまま、隼人は彼女の手を引いて車へ向かった。
……
加賀家の食事会でも、隼人の母・加賀裕子(かが ゆうこ)は相変わらず澪を気に入らない様子だった。
「澪さん。今のあなたでは、もう隼人とは釣り合わないの。それでも隼人があなたと一緒にいたいって言うから、私たちが許しただけよ。それにしても……5年も一緒にいたのに、どうして子供の一人もできないのかしら」
澪は口元に薄い笑みを浮かべた。
――できるはずがない。隼人は毎回、きちんと避妊していた。
唯一の例外は、瑠奈が同窓会に出席すると知ったあの夜だけだった。その晩の隼人は避妊する余裕もなく、まるで自制が利かなくなったように澪を何度も抱いた。
そこまで考えると、澪の顔から、すっと血の気が引いた。あの夜、自分は避妊薬を飲んでいなかった。
震える手が、無意識に下腹部へ触れる。
――もし、妊娠していたら?
その可能性を考えた途端、最悪の事態ばかりが頭をよぎった。
澪の顔色が急に悪くなったのを見て、隼人は母親の言葉に傷ついたのだと思ったのだろう。何も言わずに彼女の前へ温かいスープを置くと、裕子を見た。
「母さん、澪を責めないでくれ。子どもを作らないって決めたのは、俺だ」
「何ですって?」裕子が目を見開いた。
その隣では、隼人の父・慎一郎(しんいちろう)まで眉をひそめている。「何を馬鹿なことを言ってる!」
鋭い視線が、隼人へ向けられた。「もう30歳だろう。子どもを持つことも真剣に考えないと」
隼人が反論しようとしたときだった。
玄関のほうから、急に騒がしい声が聞こえてきた。
何事かと一同が視線を向ける。
すると――
瑠奈が姿を現した。
澪と隼人が並んで座っている姿を目にした瞬間、瑠奈の瞳がみるみるうちに潤んでいく。
「隼人……私と結婚するって言ったのに、どうして澪を連れて家族の食事会に出てるの……?」
瑠奈の言葉に、裕子と慎一郎は一瞬、何を言われたのか理解できなかったようだった。そして、彼らの表情がみるみる険しくなる。
「隼人!」慎一郎が、テーブルを強く叩いた。「愛人を連れて帰るなんて、何を考えているんだ!」
そして、今度は瑠奈の後ろにいた執事へ鋭い視線を向けた。「それからお前も!得体の知れない人間を勝手に屋敷に入れるな!」
「申し訳ございません」執事は困惑した様子で答えた。「警備の者には止めるよう指示しました。しかし、この方が加賀家の家宝であるエメラルドのブレスレットをお持ちで……どうしても坊ちゃんにお目通りしたいと」
その言葉を聞くと、瑠奈は待っていたかのように手首を持ち上げた。
白い手首に光っていたのは――間違いなく、加賀家に代々伝わるエメラルドのブレスレットだった。
「……っ!」
裕子が胸元を押さえ、小さく息をのむ。
そして、信じられないものを見るように隼人を振り返った。
「隼人……5年前、私からあのブレスレットを譲ってほしいと言ったのは……澪さんに渡すためじゃなかったの?」
第5話
澪はその言葉を聞き、思わず隼人へ視線を向けた。加賀家に代々受け継がれてきたブレスレットの存在なら、澪も知っている。
けれど、この5年間、隼人がそのブレスレットについて澪に話したことは一度もなかった。
澪はずっと、裕子が自分の身分を快く思っていないから、ブレスレットを渡すことを認めなかったのだと思っていた。
――だが違った。隼人自身が、最初から自分を一生のパートナーにするつもりなどなかったのだ。
澪は自嘲するように、かすかに口元を歪めた。
その時、隼人はすでに席を立ち、瑠奈のもとへ歩み寄っていた。
けれど瑠奈は、伸ばされた隼人の手を振り払った。泣きそうな声で、彼女は言った。
「もういいの。このブレスレットは澪に返すから」
そう言って瑠奈は、隼人を見つめた。「隼人も……澪に返すよ」
そう言うなり、瑠奈はブレスレットを外した。そして澪のもとへ駆け寄ると、その手をつかみ、無理やりブレスレットをつけようとする。
澪は何度も手を引いた。けれど、瑠奈は驚くほど強い力で澪の手首をつかんだまま離さない。このまま押し問答を続ければ、ブレスレットを傷つけてしまうかもしれない。
そう思った澪は、仕方なく抵抗をやめた。
「隼人」瑠奈は赤くなった目で隼人を見た。「私が孤児だから、あなたとは釣り合わないってことくらい分かってる。でも……だからって、私の気持ちを弄んでいい理由にはならないでしょう?」
そして、澪と隼人を見つめた。
「どうぞ末永くお幸せに」
言い終えると、瑠奈は隼人の言葉など聞くことなく、屋敷の外へ走り去った。
隼人が追いかけようとした。しかし、裕子がすぐに執事へ目配せする。
「隼人を止めて」
隼人の行く手を、執事たちが塞いだ。
裕子は、怒りに顔を赤くしながら、隼人を指さした。
「隼人、どうしてあんな行儀の悪い女に、加賀家の家宝を渡したの?あんな子、あなたの妻になれるわけないでしょう!」
隼人の眉間に深い皺が刻まれた。「母さん。そんな言い方はないだろ」
そう言ってから、今度は慎一郎へ視線を向ける。「父さん、はっきり言っておく」
その声には、珍しく強い決意があった。
「瑠奈は、俺の愛人でも、身元の怪しい女でもない。彼女は、俺が結婚したいと思っている相手だ!」
「……じゃあ、澪さんはどうなるんだ?」
「澪とは、そもそも入籍してない」
そう言うと、隼人は澪の前まで歩み寄った。そして彼女の手首をつかみ、今しがた瑠奈に付けられたブレスレットを外す。
「澪。これは、俺が将来妻にする人間に渡すものだ。お前が持つべきじゃない」
その言葉を残し、隼人は瑠奈を追うため、足早に屋敷を出ていった。
「まったく……!」裕子は、その背中を呆然と見送りながら、深いため息をついた。
そして今度は、澪へと視線を向ける。「何をぼんやりしているの。追いかけなさい!あんな子と一緒になるくらいなら、隼人にはあなたと結婚してもらったほうがずっとましよ」
澪は言われた通り、屋敷の外へ向かって歩き出した。
隼人を追いかけたいわけではない。ただ、澪ももう、この家には一秒でも長くいたくなかった。
澪が屋敷を出てタクシーを呼ぼうとしたとき、少し先の道路脇で、隼人と瑠奈が言い争っているのが目に入った。
2人がいるのは、車が絶えず行き交う大通りの脇だった。
澪は一度、そのまま見なかったことにしようとした。けれど、隼人とは幼い頃からの付き合いだ。あれだけのことがあったとはいえ、2人を危険な場所に置き去りにするのは気が引けた。
少し迷った末、澪は2人のもとへ歩み寄った。「話があるなら、せめて安全な場所でしなさい」
だが、瑠奈は澪の姿を目にした途端、さらに感情を高ぶらせた。「私なんか、あなたたちと住む世界が違うってことくらいは分かってる。でも、わざわざ追いかけてきてまで、私を笑いものにしなくてもいいでしょ?」
あまりにも一方的な言い分に、澪もさすがに苛立ちを抑えきれなかった。「人の価値は、家柄や身分で決まるものじゃない。自分を卑しいと思い込んでいるなら、それはあなた自身の問題でしょ?」
瑠奈は息を呑んだ。そして次の瞬間、その場にしゃがみ込み、声を上げて泣き始めた。
隼人は慌てて瑠奈を宥めたが、どれだけ言葉を尽くしても彼女は泣きやまず、やがて隼人の苛立ちは澪へと向けられた。「澪。お前も瑠奈のことを見下してるんだろうけど、菅野家が破産したときのことはもう忘れたのか?お前だって、借金を返すために男の相手をさせられそうになったんだぞ」
その言葉と視線に滲む軽蔑は、澪の胸に深く突き刺さった。
隼人が自分を愛していないことは、もう分かっている。それでも――彼は自分の味方だと、どこかで信じていた。
けれど、その思いすら、瑠奈への気持ちの前では取るに足らないものだったのだ。
澪は浅く息を吸い、荒れそうになる呼吸をどうにか整えた。
――もう、終わりにしよう。
隼人との関係も。自分だけが握りしめてきた、このくだらない未練も。
そう決めた、そのときだった。
瑠奈が突然、車道へ飛び出した。
隼人が咄嗟に後を追う。
その瞬間、脇道から1台の車が勢いよく突っ込んできた。
「隼人、危ない!」澪は反射的に腕を伸ばし、隼人を引き止めた。
けれど、次の瞬間、隼人は澪を強く突き飛ばした。
澪の身体がアスファルトへ叩きつけられる。
下腹部に鋭い痛みが走り、澪は思わず悲鳴をあげた。
第6話
隼人は、最初こそ苛立ったような顔をしていた。けれど、ふと澪の体から血が滲み出しているのが目に入ると、表情を変え、咄嗟に彼女を抱き起こそうとした。
しかし、澪の肩に触れた指先は、すぐに弾かれたように離れていく。
「……だめだ。俺が抱き上げたら、瑠奈が嫉妬してしまう」
額に冷や汗を浮かべ、苦痛に顔を歪める澪を前に、隼人は救急車を呼んだ。
電話を切ると、澪に向かって言った。「救急車は呼んだから、ここで待っていてくれ。俺は瑠奈を探しに行かないと」
澪にはもう、隼人が何を言っているのか、はっきりとは聞き取れなかった。ただ、目の前で彼の唇だけが動いている。
やがて視界がゆっくりと暗くなり――澪はそのまま意識を失った。
次に目を覚ましたとき、誰かの話し声が聞こえた。
「……もう少し早く搬送されていれば、赤ちゃんは助かった可能性がありました」
医師の声には、深い悔恨が滲んでいた。
「澪が無事なら、それでいいです」
聞き慣れた隼人の声だった。
澪はゆっくりと目を開けた。
医師を見送った隼人が振り返り、目を覚ました澪と視線がぶつかる。
「今の話……聞いてたんだな」
どこか後ろめたそうに言うと、隼人はそっと目を逸らした。
その様子を見て、澪はかすかに笑った。「赤ちゃんがいなくなって、かえってよかったのかもね。どうせ……産んでいいなんて、あなたは言わなかったでしょう?」
隼人は答えられなかった。
澪との子。
もし、あの子が無事だったら――自分は産ませていただろうか。
そんなことを、これまで一度も考えたことがなかった。
黙り込む隼人に、澪は静かに言った。「もう帰って。私一人でも大丈夫だから」
隼人は聞こえていないわけではなかった。それでも、すぐにその場を離れることはできなかった。
しばらく沈黙したあと、ようやく口を開く。
「……瑠奈とは仲直りした。結婚するって、約束してくれた。ただ……瑠奈がお前に、俺たちの結婚式の準備をしてほしいって。それから、当日はお前に俺たちの結婚式の介添えをしてほしいって言ってる」
一瞬、澪は何も言えなかった。苦笑いする気力さえ残っていない。
「……お母さんたちは、認めたの?」
「いや」隼人は首を振った。「でも、瑠奈を安心させるために、もう先に婚姻届は出した。だから、瑠奈には……誰よりも盛大な式を挙げさせてやりたい」
そう言うと、澪が自分のお願いを断るのを恐れるように、慌てて付け加える。「約束する。これが最後だ。もう、お前に頼み事はしない」
澪はしばらく黙っていた。それから、静かに尋ねた。
「式は、いつ?」
「10日後」
隼人の顔が、わずかに明るくなる。「……やってくれるのか?」
澪は答えず、ただ小さくうなずいた。
隼人の性格を考えれば、ここで断ったところで、何とかして自分に引き受けさせようとするだろう。
これ以上、彼らと関わり続けるくらいなら――
あと10日だけ耐えたほうがいい。
そうすれば今度こそ、本当に隼人のそばから離れられる。
……
流産してから、わずか2日。
澪は十分に身体を休めることもないまま退院し、隼人と瑠奈の結婚式の準備に付き合うことになった。
この日は、瑠奈の婚約記念の品を選ぶため、隼人たちとオークション会場を訪れていた。
次々と高級な宝石が競りにかけられていく中、澪はふと、会場に掲げられたとあるネックレスに目を留めた。
――それは、20歳の誕生日に、父の健一(けんいち)から贈られたネックレスだった。
澪の指先が、かすかに震えた。そして、初めて自分から札を掲げていた。
その直後、瑠奈も札を上げた。
「澪と私、やっぱりセンスが似てるね」彼女はにっこりと笑う。「でも、私もこのネックレスが気に入っちゃった。あとは……お互い、競り合うしかないね」
澪は一度、冷静になるよう息を吐いた。そして、隣にいる隼人へ目を向ける。これは、父からもらった大切な誕生日プレゼントだと伝えようとした。
だが、口を開くより先に瑠奈が隼人の腕に甘えるように抱きついた。「これは私と澪の勝負だからね。隼人は手を出しちゃだめよ。どっちの味方もしないって約束して」
「ああ、分かった」隼人は瑠奈の頭を優しく撫でる。
その光景を見て、澪は口にしかけた言葉を飲み込んだ。
深く息を吐き、再び札を掲げる。
けれど、瑠奈は一歩も引かなかった。
2人の競り合いは続き、価格はあっという間に跳ね上がっていく。やがて金額は、澪の手持ちではどうしても届かないところまで膨れ上がった。
澪は唇を噛み、ついに札を下ろした。
――諦めるしかない。
そう思った、そのとき。
「そのネックレスは俺がいただくよ」会場の後方から、どこか飄々とした声が響いた。「いくらになってもな」
第7話
全員が声のした方へ視線を向けると、派手な花柄のシャツを着こなした男が、まるで自分の庭を歩くような気楽さで会場へ入ってきた。
岩井啓介(いわい けいすけ)。
澪は眉をひそめる。彼のことは知っている。隼人の宿敵とも言える男だ。
そして、菅野家が破産したあのとき、澪がどん底に落ちていることをいいことに、恋人になれと迫ってきた男の一人でもあった。
隼人も彼の存在に気づいた。昔のことを思い出したのか、顔から笑みが消える。そして、隼人も札を上げ、啓介をまっすぐ見据えた。「岩井さんがいくら出そうが、俺は上乗せする」
その声には、絶対に譲らないという意志が滲んでいた。
だが啓介は、隣にいた女性の肩を気軽に抱き寄せ、肩をすくめる。「そのネックレスを落札すると、先に宣言したのは俺だ。加賀さん、まさか競りのルールまで無視して、俺と張り合うつもりか?」
「俺の婚約者が、そのネックレスを気に入ってる。譲ってくれるなら、郊外のあの土地はお前に譲ってもいい」
けれど啓介は、まるで興味がないとでもいうように首を振った。「その土地より、俺は美人を喜ばせる方が好きなんだけどな」
そう言って、意味ありげに澪へ視線を向ける。そのまま悠々とステージへ歩み寄り、ネックレスを手に取った。
そして隣の女性を抱き寄せたまま、何事もなかったかのように会場を後にした。
「……残念だね」瑠奈が、名残惜しそうに呟く。
だが、澪へ向けられたその目には、隠しきれない喜びが浮かんでいた。
瑠奈は、最初からあのネックレスが欲しかったわけではない。ただ、澪に渡したくなかっただけだ。
そんな瑠奈の言葉を聞き、隼人が口を開いた。「大丈夫だ。お前が欲しいものなら、俺が必ず手に入れてやる」
そう言って会場を出た。
澪と瑠奈もその後を追って会場の外へ出ると、そこでは隼人と啓介が鋭く睨み合っていた。
啓介は例のネックレスを手に、愉快そうに笑っている。一方の隼人は、冷え切った表情で彼を見据えていた。
澪の姿を見つけると、啓介はますます楽しげに口元を吊り上げた。「加賀さん。そうまでしてこのネックレスが欲しいなら――」
啓介は手にしたネックレスを軽く揺らした。「澪を一晩、俺に貸してくれたら譲ってやってもいい」
その言葉を聞いた瞬間、隼人の顔が歪んだ。次の瞬間には、拳が啓介の顔面に叩き込まれていた。
「澪を侮辱するなんて、絶対許さない!俺と澪はもう別れたが、それでも――澪は俺の一番大事な友達だ」
澪は、隼人を見つめた。胸の奥に、さまざまな感情が入り混じる。
「隼人、あなたって相変わらず乱暴ね」瑠奈の声には、どこか冷たいものが滲んでいた。
一方、啓介は口元の血を指で拭うと、ゆっくりと澪へ視線を向けた。その瞳には、暗い光が宿っている。
「お前はもう澪を捨てたんだろ?だったら、俺に回せばいい。少しくらい遊んだっていいだろ」
怒りに駆られ、隼人が再び動こうとした、そのときだった。
「隼人」瑠奈の声が、冷たく響いた。「澪のことばかり庇うなんて……私の気持ちを少しでも考えてくれた?」
そう言い残し、瑠奈は踵を返して走り去った。
隼人は澪を構う余裕がなく、何も言わずに瑠奈の後を追っていた。
澪は、その背中を黙って見送った。自嘲するように、かすかな笑みが浮かぶ。
――こんな展開にはもうすっかり慣れている。
瑠奈が絡めば、隼人はいつだって彼女を優先する。
「澪、今度こそ逃げ切れないぞ」
啓介が、手の中でネックレスを弄びながら近づいてきた。
「加賀は他の女のために、お前をあっさり見捨てちまった。それどころか、これが20歳の誕生日にお前の親父からもらった大切なネックレスだってことにすら気づかなかった。それでも、あいつについていくのか?」
そう言って、啓介は手を伸ばし、澪の頬に触れようとした。
けれど、澪は素早く身を引いた。
啓介は気を悪くした様子もなく、面白そうに笑う。「澪。どうせ誰かの恋人になるなら、俺にしろよ。俺が飽きるまで、他の女に手出しはしないって約束してやる。悪い話じゃないだろ?」
そう言うと、啓介は手にしていたネックレスを澪の前へ差し出した。
「お前がその気なら――これは俺からのプレゼントだ」
澪は受け取らなかった。それどころか、さらに数歩、啓介から距離を取る。
その場には多くの人がいる。啓介も、さすがにここで無理に手を出すことはできない。
それでも、彼女を値踏みするような目だけは、澪の身体を離れなかった。その視線に、澪は背筋が粟立つような嫌悪感を覚えた。
澪は、どうやってオークション会場を後にしたのか、ほとんど覚えていなかった。
あの日のあと、隼人は落札できなかったネックレスの埋め合わせだと言わんばかりに、瑠奈へ次々と高価な贈り物をした。
そして澪は、その2人の結婚式の準備を、淡々と進めていった。
瑠奈が嫌味を言ってきても、そのたびに自分へ言い聞かせた。
――あと少し我慢すれば、この2人と関わらずに済む。
そうして迎えた、結婚式まであと3日という日。
突然、隼人が澪を訪ねた。いつになく切羽詰まった様子の隼人に腕を掴まれ、澪は瑠奈のもとへ連れていかれる。
そこで初めて、事情を知らされた。
澪の名義で、隼人に1通のメールが送られていたのだ。メールには、違う男の腕に寄り添う瑠奈の写真が、何枚も添付されていた。
「これは……どういうこと?」
隼人の問いに、瑠奈はみるみる目を潤ませた。
「ごめん、隼人……でも、たくさん恋人を作ったのは……あなたを忘れたかったからなの!」
瑠奈の声は、震えていた。
「あなたには、今までたくさんの彼女がいた。私を本当に愛してくれてるのか、それともただの気まぐれなのか……私には分からなかった。それでも、私はどうしようもなくあなたに惹かれていたの。だから……あなたの面影を重ねられそうな人を探し続けた。何人もの人と付き合えば、いつかあなたを忘れられるかもしれないって。
でも、誰と付き合っても長くは続かなかった。あなた以外の人に触れられるのが、どうしても無理だったの」
自嘲するように笑い、瑠奈は言った。「隼人が信じてくれなくても、無理はない。私の過去が嫌なら……ここで終わりにしましょう」
そう言って、瑠奈はその場を去ろうとした。だが隼人が、すぐに彼女の腕をつかみ、そのまま強く抱きしめる。
「そんなことを言うな。俺が悪かった。お前を、安心させてやれなかった。もう昔のことは持ち出さない。これからのことだけを考えよう」
瑠奈は隼人の肩に頭を預けた。けれど、その目だけは、まっすぐ、澪を見据えていた。
――瑠奈は、結婚式の直前に問題を起こすつもりなどなかった。
だが、隼人の友人が、偶然彼女が過去に別の男たちと付き合っていたことを知ってしまった。そして、その証拠となる写真を隼人へ送ってきたのだ。
瑠奈はすぐにそのメッセージを削除し、さらに多額の金を払って専門家に依頼し、SNS上に残っていた写真も可能な限り消した。
それでも、すべてが完全に消えたという保証はない。
瑠奈は、ずっとそのことを不安に思っていた。だから結婚式の前に、厄介な火種をすべて処理しておくことにした。
そのために選ばれたのが――澪だった。
瑠奈は涙声を作って、澪に問いかける。
「澪……それらの写真、どこで見つけたの?」
第8話
澪は、胸の奥で小さく息を吐いた。だが、それも一瞬のことだった。すぐにいつもの表情へ戻る。
「私が隼人に、そんなメールを送ってない」
冤罪を着せられても、その声は静かだった。けれど、はっきりとした強さがあった。
「さっきメールの送信時刻を確認したけど、今朝の9時だった。その時間なら、私はあなたたちの結婚式会場で設営の手伝いをしていた。現場には30人以上のスタッフがいたから、証言してくれる人はいくらでもいる」
そこで澪は一度言葉を切り、そっと視線を上げて隼人を見た。「それに――加賀家ほどの力があれば、送信元のIPアドレスくらい、特定できるでしょう?」
わずかに微笑む。「どうする?調べてみる?」
その言葉に、瑠奈の表情がほんのわずかにこわばった。
自分が雇った人物の工作が、本当に足がつかないものだったのか。もし調べられたら、すべてが露見するかもしれない――そんな不安が、一瞬だけ彼女の胸をよぎった。
しかし、隼人は冷ややかな声で言った。「この話はもう終わりだ。これ以上、誰も口にするな」
そして、澪へと鋭い視線を向ける。「瑠奈は俺が選んだ生涯のパートナーだ。彼女の過去に何があっても、俺の妻だってことには変わらない」
澪は自嘲するように笑った。
隼人は、澪が瑠奈の過去を調べ上げ、2人の結婚を壊そうとしているのだと思っているのだろう。
そして、この一件が瑠奈自身が仕組んだものだと、澪もほぼ確信していた。
けれど、もうどうでもよかった。2人の間で何が起ころうと、自分には関係ない。
あと3日。
3日後には、澪は2人のもとから離れられる。
隼人が去ると、瑠奈は途端に涙を拭った。そして、勝ち誇ったような笑みを浮かべて澪を見る。「確かにあのメールは、私があなたの名義を借りて送ったの」
澪の反応をうかがうように、瑠奈は口元を歪めた。「隼人に言いつければ?」
そして身をかがめ、澪の耳元で囁く。「まあ、そんなことしたら、澪がもっと隼人に嫌われるだけだけどね」
写真騒ぎの後、澪は余計なことをいっさい言わなくなった。
瑠奈がどれほど挑発してきても、ただ黙って受け流す。
――あと3日、耐えればいい。
そう、自分に言い聞かせながら。
結婚式を翌日に控えた夜、隼人から澪にメッセージが届いた。
――「結婚式当日の流れを、もう一度確認したい」とのことだ。
澪は疑うことなく、指定された場所へ向かった。
しかし、ナビが案内した先は見覚えのない住所だった。部屋で澪を待っていたのも、隼人ではなく、啓介だった。
「加賀も、意外と約束は守る男なんだな」
啓介は澪の姿を見るなり、すぐに扉を施錠した。
出口を塞ぐように立ち、澪の姿を上から下まで眺めながら、面白そうに口元を歪める。
「あのネックレスを加賀に届けてすぐ、あいつはお前を俺のところへ寄越した」
澪の頭の中が、真っ白になった。
――そんな……
あの日、あれほど自分を庇っていた隼人が、今度は自ら、自分を啓介のもとへ差し出したというのか。
信じられない思いで頭の中が混乱した。
けれど、啓介はそんな澪の戸惑いなど意に介さず、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
澪は手のひらを強く握り込み、必死に自分を落ち着かせた。
「岩井さん。私に手を出したら、どうなるか分かってます?」
「分かるも何も、加賀はもうお前を捨てたんだろ?今さら、何を気にする必要があるんだ?」
啓介は、獲物を追い詰めるハンターのように澪を弄んだ。澪がドアへ駆け寄るたび、その手前で引き戻される。
「澪。お前が加賀と関係を持ってなかったら、俺も結婚くらい考えてやったかもしれない。顔は本当に、申し分ないからな」
啓介は嘲るように笑った。
「だが、残念なことに、お前はもう加賀の『お下がり』だ。あいつがいらなくなった女なんて、喜んで拾う人はいないさ」
さらに澪の頬を軽く叩き、面白がるように口元を歪める。「もっとも、これから大人しく俺のそばにいれば、悪いようにはしない」
その言葉に、澪は吐き気を覚えた。それでも顔には出さず、むしろ柔らかな声で答える。「……分かりました。だったら、手を放してください。こういうことは、お互い納得してるほうがいいでしょう?」
もちろん、啓介も澪が本心からそう言っているわけではないと分かっていた。それでも、自分から逃げ切れるはずがないと高をくくっていたのだろう。
愉快そうに笑いながら、あっさりと澪の手を離した。
澪は少しずつ後ずさりしながら、素早く室内を見回した。
護身に使えそうなものは――テーブルにあるワインボトルが2本。それから、近くに置かれた灰皿だけ。
一瞬で、澪の頭の中に脱出までの道筋が組み立てられていった。
澪は怯えたふりをして、じりじりと後ずさりした。灰皿のある場所まで下がると、啓介が楽しそうに笑いながら距離を詰めてくる。「まだ逃げるつもりか?」
啓介の注意が澪の顔に向いている、その一瞬だった。澪は渾身の力で、彼の急所を蹴り上げた。
啓介が呻き声を上げて身を屈めた隙に、澪は迷わず灰皿をつかみ、勢いよくその頭に叩きつける。
さらにライターを取り出し、テーブルクロスに火をつけた。
その上から、2本のワインを一気に振りかける。
――今日の昼間、結婚式場にある108本のキャンドルを澪自身の手で灯してほしいと、瑠奈が無理を言っていた。
そのおかげで、ライターがポケットに入っていたのだ。
啓介が痛みにのたうち回っている間に、澪は素早く扉を開け放つ。
「火事です!助けてください!」
叫び声を聞きつけ、すぐに何人もの人間が駆けつけてきた。澪はその人波とは逆の方向へ、全力で走った。
どれほど走ったのか分からない。足が震え、今にも力が抜けそうだった。それでも足を止めることはできなかった。
ようやく人通りの多い商業施設までたどり着いたところで、澪は初めて立ち止まった。
道路脇に身を寄せると、背中はすでに冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
胸元に手を当て、荒い息を繰り返す。しばらくしてようやく呼吸が落ち着いたところで、澪はスマホを取り出した。
その瞬間、隼人からメッセージが届いた。
【明日は早めに式場へ来てくれ。花嫁介添えとして、準備を手伝ってほしい】
澪は冷たく笑った。そして、ためらうことなく隼人をブロックした。
もう二度と、隼人と会いたくなかった。
家に戻って荷物を取りに行くことすら諦め、そのまま空港へ向かう。
そして、川南市行きの最も早い便を予約した。
胸の奥の不安は、なかなか消えなかった。
だが、飛行機が滑走路を離れ、空へと浮かび上がった瞬間――
澪はようやく、すべての力が抜けるのを感じた。
長く息を吐き、心の中で静かに呟く。
――さようなら、西京市。さようなら、隼人。
今度こそ、永遠に。