第1章
私、高瀬紬希(たかせ つむぎ)は、「胃が痛い」と顔をしかめる夫のために、消化に良いお弁当をわざわざ作って社長室へと急いだ。
しかし、少しだけ開いていたドアの隙間から目に飛び込んできたのは、全面ガラス張りの窓に、今年入ったばかりの若いインターン生の女を乱暴に押し付ける夫の姿だった。
夫である高瀬奏也(たかせ そうや)は、「君の綺麗な手が汚れるから」と、食後のブドウの皮さえ丁寧に剥いてくれる、優しくて過保護な愛妻家だったはずだ。
けれど今、その大きな手は、あろうことか若い女のブラウスを急かしかけるように剥ぎ取っている。
「社長……私のお腹にはもう、三ヶ月になる赤ちゃんがいるんです。まさか、この子を私生児にするつもりじゃないですよね?」
すがるような女の甘ったるい声に、奏也は冷酷に手を振り上げ、女の頬を激しく張り飛ばした。
「身の程を知れ。お前なんかが、紬希の代わりになれるとでも思ったか?」
しかし――
冷たい言葉を吐き捨てた直後、私はこの目で見てしまった。彼が、泣き崩れる女の唇を塞ぐように、再び激しいキスを落とすのを。
部屋の中は甘い情欲で熱を帯びているというのに、弁当箱の包みを握りしめる私の指先は、凍りつくように冷え切って痛みを覚えるほどだった。
あの火事の日。
私が自分の命を投げ打ってでも、燃え盛る炎の中から這いずりながら救い出した愛しい人。
「子供なんていらない。跡継ぎなんてどうでもいいんだ。紬希さえ生きてそばにいてくれれば、俺の人生はそれだけで完璧なんだから」
病院のベッドで私の手をきつく握りしめ、ボロボロと子供のように涙をこぼしていたあの日の奏也は、もうどこにもいない。
ああ、そうか。
私がここから消えるべき時は、とうの昔に来ていたんだ。
第1話
私は、ドアを蹴り破って浮気現場に踏み込むような真似はしなかった。
ヒステリックに泣き叫んだり、相手の女を罵倒したりすることもない。
ただ、すっかり冷え切ってしまった手作りのお弁当を提げたまま、静かに彼と暮らす家へと引き返しただけだ。
「奥様!どうしてそんなに顔色が真っ青なんですか?立ちくらみですか?
ああっ、奥様、その荷物を早く手放してください!華奢なお体に傷でもついたら大変です!」
玄関を開けるなり飛んできた、長年我が家で働いてくれているお手伝いの松本(まつもと)の悲鳴のような声で、私はようやく我に返った。
無意識のうちにランチバッグの持ち手をきつく握りしめていたのだろう。
私の手のひらには、くっきりと二本の赤い鬱血の痕が残っていた。
たかが赤い痕がついただけなのに、松本はオロオロと私の周りをうろたえ回っている。
無理もない。
あの凄惨な火事の後、私は過度なショックとストレスから造血機能に障害を抱え、血小板の数値が慢性的に低い状態になってしまった。
ちょっとした傷でも血が止まりにくく、少しぶつけただけでも酷い内出血になって治りにくいのだ。
私がかすり傷一つ負うたびに、奏也は自分のことのように青ざめ、激しく自分を責め立てていた。
その異常なまでの過保護さに、いつしか家で働く使用人たちまでが神経質になってしまったのだ。
私の手のひらから血が出ていないことを確認して、松本はふうっと安堵の息を吐き出した。
そして、少し呆れたような顔をして小声でぼやき始めた。
「旦那様も困ったものですね。奥様のお体では妊娠も出産もリスクが高すぎるというのに、あんなに子宝に執着なさるなんて。
奥様からも少し言ってやってくださいよ。毎日毎日、ご自分で得体の知れない煎じ薬なんか飲まれて……
万が一、本当に奥様がご懐妊なさったら、そのお体でどうやって産むつもりなんでしょうか」
言い過ぎたとハッとしたのか、松本はそれ以上言葉を続けることなく口をつぐんだ。
私は彼女の言葉を否定することもできず、ただぼんやりと宙を見つめていた。
奏也の、あの執念にも似た「子作り」への渇望。
子宝に恵まれると有名な山奥の神社まで赴いた彼は、何百段もある険しい石段を、一段上るごとに土下座をして祈り続けた。
スーツの膝を破り、額から血を流してまで、たった一つの「子授けのお守り」を手に入れてきたのだ。
どこからか怪しげな民間療法を見つけてきても、決して私に試させることはなかった。
その代わり、吐き気がするほど泥臭くて苦い薬草の煎じ汁を、毎日毎日自ら進んで飲み干していた。
「不妊の悩みで、女の人ばかりが薬を飲んで辛い思いをするなんて絶対におかしい。
君の体に効く薬なら、俺が飲んだって同じように効果はあるはずだ。紬希にはもう、これ以上の苦痛を味わわせたくないんだ」
あの真剣な眼差しでそう言われてから、私は彼が薬を飲むのを止めるのをやめた。
彼の不器用で深い愛情に胸を打たれた私は、彼に内緒で海外の権威ある専門医に連絡を取り、密かに最新の精密検査と治療を受けていたのだ。
今日、わざわざ会社にお弁当を届けに行ったのも、彼を驚かせたかったから。
――私の体はもうすっかり回復して、あなたの子供を産めるようになったわ。
そんなとびきりのサプライズをプレゼントするつもりだった。
まさか、そのサプライズの箱を開ける前に、社長室の窓際で繰り広げられるインターン生との濃厚な情事を見せつけられるだなんて、思いもしなかったけれど。
いつも私の髪を、頬を、壊れ物のように優しく撫でていたあの大きな手が。
いやらしく蠢きながら、若いインターン生の短いタイトスカートをめくり上げていた光景が、脳裏に生々しくフラッシュバックする。
胃の奥から、ドロリとした耐え難い吐き気が込み上げてきた。
社長室の大きな窓際で、二人の体が生々しく絡み合う音や、甘ったるい嬌声が、まるで耳元を飛び回る羽虫のように私の脳内でブンブンと鳴り響いていた。
「結城(ゆうき)先生、離婚協議書の作成をお願いします。
ええ……話し合いから離婚届の提出まで、すべて代理で進めていただけませんか。もう二度と、あの人の顔を見たくないんです……」
顧問弁護士との通話を終えようとした、まさにその時だった。
ガチャリと寝室のドアが開いて、奏也が足早に入ってきた。
彼は私の青白い顔を見るなり、血相を変えて駆け寄ってきた。
「紬希?今、誰の顔を見たくないって言ったんだい?
誰かに嫌なことでも言われたのか?俺に言ってごらん。どんな相手だろうと、俺が絶対に解決してみせるから」
私の前にしゃがみ込み、不安げに顔を覗き込んでくる彼は、いつだって私のすべてを守ってくれる、頼もしくて完璧な夫の顔をしていた。
――もし、彼が脱ぎ捨てようとしているスーツの襟元に、べっとりと擦り付けられた真っ赤なルージュの跡さえなければ。
「……誰も私に嫌なことなんて言ってないわ。ただ、少し気分が塞いでるだけ」
ただ、もうあなたのことがいらなくなっただけ。
そう突き放せばいいのに、楽しかったあの頃の記憶が足枷となって、私の心を雁字搦めにしていた。
彼を見つめているうちに、堪えきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちる。
私の涙を見た途端、奏也の目まで痛ましそうに赤く潤んだ。
「ごめん……全部俺のせいだ。君が何を悩んでいるのか、どうしてそんなに悲しんでいるのかすら気づいてやれないなんて。俺は本当にダメな夫だな……」
そう言って、自らを責めながら私の頬の涙を指で拭う彼の仕草は、心の底から私を愛し、私を何よりも大切にしているようにしか見えない。
けれど、視界の端にチラつく鮮やかなルージュの赤が、「全部嘘っぱちだ」と私を嘲笑っていた。
ああ、私が彼に捧げたこの10年の歳月は、全部ドブに捨てたのと同じだったんだ。
昔の彼は、こんな人じゃなかった。
私と結婚したあの日、彼は誓ってくれたのだ。
「紬希はただ、毎日笑っていてくれればいい。外で汗水垂らして稼ぐのは、男である俺の役目だからね」
そして、彼はその言葉通りに行動で示してきた。
この10年間、彼は文字通り身を粉にして働き、私の個人資産には指一本触れようとしなかった。
実家である桐生(きりゅう)家にも、決して頼ろうとはしなかった。
桐生家の一人娘である私が一言口添えすれば、彼の会社の事業なんて一瞬で軌道に乗るはずだった。
それでも彼は、過労で血を吐いて倒れそうになっても、私に助けを求めることはなかった。
「君みたいな素晴らしいお嬢さんをもらっておいて、君の親にまで甘えるような真似をしたら、君の顔に泥を塗ることになるからね」と、不器用に笑うだけだった。
それでも、桐生という巨大な資本の影は否応なく彼を助けてしまっていた。
取引先が「桐生家の婿殿だから」と便宜を図るたびに、彼は私の前でポロポロと涙を流して「男として情けない」と謝り続けた。
その涙を見るたびに、私は彼を選んだ自分の決断は間違っていなかったのだと、密かに安堵していた。
当時、私の周りには名だたる名家の御曹司たちが群がっていた。
それなのに、私はごく一般的な中流家庭で育った、取るに足らない小さな会社の跡継ぎでしかない彼を選んだ。
理由はただ一つ。
彼が誰よりも純粋に私を愛し、私のどんな我儘な性格も、すべて優しく包み込んでくれたからだ。
結婚後、過度なストレスによる免疫異常で、私の体が「極めて妊娠しにくい状態」だと判明した時のことだ。
ひどく落ち込む私を笑わせるためだけに、彼はこっそりプロの教室に通って手品を習い、不格好なピエロの真似事までして見せてくれた。
会社の社長という肩書きがありながら、私の機嫌を取るためなら、人前でおどけて見せることすら厭わなかったのだ。
しかし、子供ができないことで、彼の親族からの風当たりは日に日に強くなっていった。
家柄の釣り合わない嫁というだけでも面白くないのに、跡継ぎすら産めないのかと。
ある日、ついに限界を迎えた奏也は、自分の両親に向かって真っ赤な顔で机を叩きつけた。
「俺は紬希がいればそれでいい!もし紬希が産めない体なら、俺の代で高瀬家の血が絶えても構わないんだ!
これ以上彼女を苦しめるような真似をするなら、親だろうが親戚だろうが、全員俺の人生から出て行ってくれ!」
その日を境に、彼は自分の実家と一切の連絡を絶った。
私たち夫婦の絆の深さは、社交界の奥様たちの間でも有名な話になり、誰もが奏也の深い愛情を羨んだ。
その時の私は、心底「自分は人生の勝者だ」と信じ切っていたのだ。
けれど、高層ビルの社長室にあるあの全面ガラス張りの窓の前で、私の長年の誇りも、夫への信頼も、見事に粉々に打ち砕かれた。
ずっと前から周到に用意されていた、酷く悪趣味なドッキリ番組のピエロにでもなった気分だ。
惨めで、滑稽で、笑い飛ばすしかないほどに。
第2話
適当な言い訳をして彼をなだめ、私は彼をバスルームへと向かわせた。
人が何か行動を起こせば、必ずどこかに痕跡が残る。
それは奏也だって同じだ。
私は彼が持ち帰った仕事用のカバンやファイルを、震える手で片端から探った。
そして、一番下の目立たない場所から、くしゃくしゃに丸められた一枚の病院の領収書を見つけ出した。
患者名には、「林美羽(はやし みう)」とある。
――あの若いインターン生の名前だ。
そして内容欄には、産婦人科、妊娠検査、妊娠6週目と印字されていた。
さらに絶望的なことに、支払人のサイン欄には、見慣れた奏也の文字が堂々と書き殴られていた。
日付は先月。
妊娠6週目……
計算すれば、ちょうど私の誕生日の頃だ。
あの日、彼は「急なトラブルが起きた」と言って、一晩中家に帰ってこなかった。
翌朝、ひどく疲れた顔で帰宅した彼は「ごめん、紬希を驚かせるための準備で徹夜していたんだ」と優しく笑った。
私はてっきり、その日の夜に彼が用意してくれた盛大なサプライズ花火のことだと思い込んで、嬉し泣きまでしたのだ。
まさか、本当のサプライズが、他の女の腹の中に自分の子供を仕込んでいたことだったなんて!
家では完璧な愛妻家を演じながら、外では若い愛人と体を重ねる。
ねえ、奏也。そんな二重生活をしていて、疲れないの?
心の中でヒステリックに彼を罵倒しながらも、私はその領収書を彼に突きつけて答えを迫る気にはなれなかった。
バスルームのシャワーの音が止んだ。
私は音を立てないように、急いでベッドに潜り込んだ。
腰にバスタオルを巻いたまま出てきた奏也は、いつものようにごく自然な動作でベッドに入り、私を抱きしめようとした。
私は彼に背を向けたまま、目尻からこぼれ落ちた涙をシーツに擦り付け、できる限り平坦な声を絞り出した。
「……今夜は、ゲストルームで寝てくれない?少し風邪気味みたい。あなたにうつしたら大変だから」
奏也は一瞬動きを止めたが、すぐに私の額へ心配そうに手を当ててきた。
「かかりつけの医者を呼ぼうか?俺は寝なくていいから、ずっとそばについてるよ」
「ううん、いいの。あなたが隣にいると、かえって気を遣って休めないから」
私は自然なふりをして、彼の手の温もりから逃れるように体をずらした。
今回ばかりは彼も無理強いはせず、ただ毛布の上から軽く私を抱きしめた。
「わかった。何かあったらすぐ呼ぶんだよ」
そう言って、彼は立ち上がり部屋を出て行った。
ガチャリとドアが閉まるその瞬間まで。
私は心のどこかで、彼が私の強がりに気づいて「やっぱり心配だから」と戻ってきてくれるのを、馬鹿みたいに期待していた。
でも、彼は戻ってこなかった。
きっと、早く美羽にメッセージを送りたくてたまらなかったのだろう。
昼間、会社で彼女が「今夜、社長に素敵なご褒美を用意してますからね」と甘ったるい声で囁いていたのを思い出す。
今頃、彼は彼女に指示を出して、私という妻がいる家では味わえないような、背徳的で刺激的な情事を計画しているのかもしれない。
そんな想像が頭の中を駆け巡り、止めどなく涙があふれて枕を濡らした。
10年という月日は、決して短くはない。
でも、どんなに深い愛も、時間とともに薄れてしまうものなのだろうか?
あんなにも熱烈に私を求めていた人が、どうして先に冷めてしまったの……
翌日。
私は意を決して、再び彼の会社に足を運んだ。
しかし、社長室に奏也の姿はなかった。
秘書に尋ねると、「社長は郊外の開発プロジェクトの視察に向かわれました」という。
郊外の開発エリア。
そこは、ただの仕事の現場ではない。
かつて彼が、私への愛の証としてプレゼントしてくれた別荘がある場所だった。
……
郊外の静かな別荘地に、私の車は音を立てずに滑り込んだ。
庭の木陰に身を潜め、少しだけ開け放たれたリビングの大きな窓ガラス越しに室内を覗き込む。
周囲は不気味なほど静まり返っており、風に乗って微かな声がはっきりと私の耳に届いていた。
窓の向こうでは、奏也が私に背を向けて立っていた。
その腕の中には、透けてしまいそうなほど薄いネグリジェを纏った美羽が、骨抜きにされたようにぐったりと寄りかかっている。
「社長……この間の夜、言われた通りにちゃんとお手入れしましたよ。綺麗になってるか、確かめてみませんか?」
甘ったるい嬌声とともに、奏也の大きな手が彼女の服の中に滑り込むのが見えた。
その手が中で何をしているのか、想像するだけで胃液が込み上げてくる。
美羽の頬は次第に赤く染まり、荒い息遣いの中に途切れ途切れの言葉が混じった。
「社長……お腹の赤ちゃん、もう三ヶ月ですよ。パパのことが分かるようになってきたみたい……
今日はもう帰らないで、ずっと一緒にいてくれませんか?あんな、子供も産めない役立たずの妻のところになんて帰る必要――きゃあっ!」
鈍い音が響いた。
奏也が突然、抱き寄せていたはずの美羽を乱暴に床へと突き飛ばしたのだ。
床に尻餅をついた美羽は、何が起きたのか分からないといった顔で、みるみるうちに涙目を浮かべて彼を見上げた。
しかし、奏也の口から吐き出されたのは、身の毛がよだつほど冷酷で、嫌悪感に満ちた声だった。
「自分の立場を弁えろ。俺が用があるのは、お前の腹の中にある肉塊だけだ。お前自身には微塵も興味はない。
間違っても、紬希の代わりになれるなんて思い上がるなよ。もしそんな素振りを見せたら、二度とこの業界を歩けないようにしてやるからな」
凍りつくような沈黙の後、奏也は少しだけトーンを落とし、財布からブラックカードを抜き出して美羽の顔に投げつけた。
「これで胎児に良い栄養剤でも買え。いいか、この子の母親は紬希ただ一人だ」
そう言い捨てると、彼は傍らのティッシュを乱暴に引き抜き、たった今美羽の肌に触れていた自分の指先を、まるで汚物でも触ったかのようにゴシゴシと拭い始めた。
「お前はただの器だ。無事に産み落としたら、さっさと俺たちの目の前から消えろ。
紬希が子供を欲しがっているから、俺は彼女に『完璧な家族』を与えたいだけなんだ。
それがなければ、お前みたいな安い女が俺の視界に入れるわけがないだろうが」
庭先に立ち尽くす私は、あまりのショックで全身の血液が凍りつき、関節が怒りで軋むのを感じた。
ああ、そういうことか。
彼の頭の中では、妻を裏切り、外で別の女に子供を作らせるという下劣な行為でさえ、「紬希のため」「彼女に完璧な家族を与えるため」という美談にすり替わっているのだ。
この男の自己陶酔に満ちた歪んだ愛情に、私は吐き気を通り越して狂気すら感じた。
胃の奥が激しく波打ち、立っているのも限界だった。
私は逃げるように自分の車へと戻り、運転席に転がり込んだ。
その時だ。
窓越しに見える室内の奏也のスマートフォンが、けたたましく鳴り響いた。
「なに?紬希がこっちに向かってるだと?なぜもっと早く知らせなかった!!」
電話に出た瞬間、奏也の顔から血の気が引くのが見えた。
先ほどまでの冷酷な支配者の顔は消え失せ、恐ろしいほどの焦燥とパニックが彼を支配していた。
「早くクローゼットの奥に隠れろ!いいか、少しでも音を立てたら、生きてることを後悔させてやるからな!!」
「でも社長……私、もっとあなたと……お医者様も、妊婦の精神状態は胎児に影響するって……」
クローゼットに押し込まれそうになりながら、美羽は哀れっぽくすがりついた。
第3話
奏也は舌打ちをし、「すぐに相手をしてやる。今はとにかく黙ってろ」と吐き捨てて、乱暴にクローゼットの扉を閉めた。
そして彼は、大きく深呼吸を一つした。
たったそれだけの動作で、彼の顔には、私がこの10年間見続けてきた「底抜けに優しくて妻思いの夫」の仮面が、完璧に貼り付けられた。
玄関の扉が開き、足早に外へ出てきた彼が、私の車を見つけて駆け寄ってくる。
運転席で苦しそうにうずくまる私を見るなり、彼の瞳からは痛ましいほどの愛情と心配が溢れ出した。
「紬希!どうしてこんな所まで来たんだい?
あいつら、君の体調が優れないのを知っているのに、一人で出歩かせるなんて……!帰ったら使用人は全員クビにしてやる!」
怒りと悲しみで息が詰まりそうだった私は、ただ力なく手を上げ、「そんなことしないで」と彼を制止することしかできなかった。
「紬希、お願いだからこれ以上自分を痛めつけるような真似はしないでくれ。俺を心配で死なせる気かい?」
細かく震える声で私を気遣う彼のその態度は、まるで私が触れただけで壊れてしまうような、かけがえのない宝物であるかのようだ。
つい数分前まで、別の女と獣のように絡み合っていたくせに。
私はこみ上げる強烈な吐き気と感情を必死に押し殺し、努めて平坦な声を出した。
「会社で、あなたがこのエリアの開発プロジェクトを視察しに来ていると聞いてね。
……でも、どうして仕事の途中で、この別荘に立ち寄ったの?それに、あなた一人だけ?」
私の探るような問いかけにも、奏也は顔色一つ変えずに柔らかく微笑んだ。
「実は、ベビー部屋の改装の下見に来ていたんだよ」
彼は私の頭を優しく撫で、愛おしそうに、けれど少しだけ困ったように目を細めた。
「君へのサプライズにしたかったんだけど、バレてしまったか。
紬希、遠い異国の代理母エージェントと話がついたんだ。俺たちも、もうすぐ自分たちの子供を持てるようになるんだよ。
そうしたら、君と俺と子供と、家族水入らずでここで暮らそう。君はただ子供のそばで笑っていてくれればいい。
俺が外で稼いで、家事も全部やるから。……一生、そうやって生きていこう。ね?」
甘く蕩けるような瞳で愛を囁く彼を見つめながら、私は全身の血液が凍りつくような悪寒に襲われていた。
奏也、あなたの口から吐き出される嘘は、どうしてそんなに滑らかなの?
海外の代理出産だなんて、よくもそんな見え透いた嘘がつけるものだ。
どうせ試験管の力なんか借りていないんでしょう?あなたのその汚らわしい欲望のままに、直接彼女の体内に仕込んだ子供のくせに。
この別荘のクローゼットの奥に自分の種を宿した女を隠しておきながら、平然と正妻の私に永遠の愛を誓う。
……本当に、反吐が出るほど滑稽だ。
……
その日の夜。
奏也は上機嫌で、一枚の招待状を私に差し出した。
それは上流階級の人間しか立ち入れないチャリティー夜会のチケットだった。
今夜は私の大好きな高名なピアニストが演奏を行う予定で、滅多に手に入らないプラチナチケットと化している代物だ。
私のご機嫌をとろうとする彼の瞳の奥には、どこまでも深い愛情が湛えられているように見える。
私はすべてを知っていることを悟られないように、嬉しそうなふりをして頷いた。
ちょうどいい。
この男が一体いつまでこの「完璧な愛妻家」の芝居を続けられるのか、最前列で見物してやろうじゃないの。
夜会の会場でも、奏也は片時も私のそばを離れなかった。
私に勧められるお酒をすべて代わりに飲み干し、私が歩くたびにドレスの裾が汚れないように気を配る。
周囲の華やかな夫人たちは、そんな私たちを見て羨望の溜め息を漏らしていた。
「高瀬社長は、本当にいつ見ても奥様に首ったけですわね」
「奥様が跡継ぎをお産みになれなくても、あれほど愛し続けていらっしゃる。あれこそ本物の愛というものですわ」
奏也はそんな周囲の称賛にも気にも留めず、ただひたすらに私を世話してくれている。それはもう、彼の細胞の隅々にまで刻み込まれた本能のようだった。
その時、不意に背後からドンッと強い力で突き飛ばされた。
ヒールのバランスを崩した私は、あわや高く積まれたシャンパンタワーに突っ込みそうになる。
間一髪のところでどうにか足を踏ん張り、私は弾かれたように後ろを振り返った。
そこには、してやったりの意地悪い笑みを浮かべる美羽の姿があった。
今、私を突き飛ばしたのは間違いなく彼女だ。
しかし、どうして彼女がここにいるの?
給仕としてすら入り込むことができないこの厳格な夜会に、一介のインターン生でしかない彼女が足を踏み入れる資格などあるはずがない。
彼女をここへ招き入れることができる人間なんて、奏也しかいないのだ。
彼の私に対する「唯一の愛」は、とうの昔に真っ二つに割られ、美羽にも分け与えられていたのだ。
いや、もしかしたらこの先、三等分、四等分されていくのかもしれない。
「危ないっ!」
誰かの悲鳴が華やかなホールに響き渡った。
私が呆然と立ち尽くすその頭上へ、二メートル近い高さに積み上げられていたシャンパンタワーが、恐ろしい勢いで崩れ落ちてくる。
「紬希!」
私を命より大事だと言っていた夫は、その瞬間、間違いなく私を助けようと飛び出してきた。
――しかし。
彼の視線が、美羽のわずかに膨らんだ下腹部を捉えた瞬間。
その体は、不自然なほど急激に軌道を変えた。
彼は私に背を向け、美羽の体を庇うように覆い被さったのだ。
ガシャアアアンッ!!
硬質なガラスが粉々に砕け散る轟音が耳をつんざき、鋭い破片が容赦なく私の背中に突き刺さる。
あちこちから噴き出した血が、あっという間に純白のドレスを赤黒く染め上げていった。
痛いはずなのに、私の心はどこまでも冷え切って、何の感情も湧いてこなかった。
ただ、床に倒れたまま、血溜まりの中で自分以外の女をきつく抱きしめる夫の背中を、虚無の目で見つめていた。
あんなにも、自分の血を分けた子供が欲しかったのね。
でも、奏也。あなたは知らないでしょう?
私はずっと海外の専門医にかかっていて、とうの昔に妊娠できる体に回復していることを。
そして、極秘で受けた精密検査の結果……
本当に子供が作れない体だったのは、私ではなく、あなたの方だってことを。
「……あ、あぁ……っ!」
美羽が無事だと確認し、安堵の息を吐いた奏也が振り返った。
血の海に沈む私を見た瞬間、彼の顔からスッと血の気が引き、死人のように青ざめた。
「紬希っ!!」