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あの日死んだ心は二度とあなたを愛さない
私は、誰からも愛されなかった久我家の実の娘、上原千夏(うえはら ちなつ)だ。 上原家に引き取られた頃には、私の代わりに令嬢として育てられた上原詩奈(うえはら しいな)は、誰もが認める申し分のない娘になっていた。一方の私は、礼儀も作法も知らない田舎者にすぎなかった。 詩奈は盛大な結婚式を挙げ、名家の藤原家へ嫁いだ。 私は厄介払い同然に、神谷家で日陰者扱いされていた愛人の子、神谷蒼士(かみや そうし)に嫁がされた。 誰もが私を疎んでいた。蒼士も同じだと思っていた。 けれど彼だけは、笑ってこう言ってくれた。 「千夏、これまでの人生は選べなかった。でも、これからは俺がずっと守る」 この人だけは違う。そう信じていた。 やがて蒼士は一族の主導権争いに勝ち、神谷ホールディングスの実権を握った。 彼が真っ先にしたのは、藤原グループを破綻へ追い込み、詩奈を自宅へ迎え入れることだった。 そのとき、ようやく分かった。 蒼士もほかの人たちと同じだった。 蒼士が愛していたのも、やはり私ではなく詩奈だった。
チャプター (1)
第1章
私は、誰からも愛されなかった久我家の実の娘、上原千夏(うえはら ちなつ)だ。
上原家に引き取られた頃には、私の代わりに令嬢として育てられた上原詩奈(うえはら しいな)は、誰もが認める申し分のない娘になっていた。一方の私は、礼儀も作法も知らない田舎者にすぎなかった。
詩奈は盛大な結婚式を挙げ、名家の藤原家へ嫁いだ。
私は厄介払い同然に、神谷家で日陰者扱いされていた愛人の子、神谷蒼士(かみや そうし)に嫁がされた。
誰もが私を疎んでいた。蒼士も同じだと思っていた。
けれど彼だけは、笑ってこう言ってくれた。
「千夏、これまでの人生は選べなかった。でも、これからは俺がずっと守る」
この人だけは違う。そう信じていた。
やがて蒼士は一族の主導権争いに勝ち、神谷ホールディングスの実権を握った。
彼が真っ先にしたのは、藤原グループを破綻へ追い込み、詩奈を自宅へ迎え入れることだった。
そのとき、ようやく分かった。
蒼士もほかの人たちと同じだった。
蒼士が愛していたのも、やはり私ではなく詩奈だった。
第1話
詩奈が神谷邸へ転がり込んで3日目、手首を切った。
傷はごく浅く、血もほとんど出ていなかった。それでも、いつも冷静な蒼士は我を失った。
数十億円規模の国際契約を決める会議を取りやめ、ろくに眠りもせず、詩奈のベッドのそばにつききりになった。
詩奈の誕生日には、都心の大型ビジョンを何面も借り切った。
映し出されたのは、たった一言。
【詩奈、これからもずっと笑っていて】
親友は怒りに震え、そんな扱いに耐えてまで蒼士の妻でいることはないと私に言った。
私は何も答えられなかった。
それでも、どうしても納得できなかった。
共に過ごした日々に、わずかでも本当の愛情があったと信じたかった。
涙をこらえて問いただすと、蒼士は昔と変わらない優しい声で私をなだめ、髪を撫でた。
「千夏なら分かってくれるだろ。詩奈はもう、何もかも失ったんだ」
人工心臓のあたりが、きつく締めつけられるように痛んだ。
苦笑しか返せなかった。
藤原家を失ったのは、蒼士が藤原グループを潰したからではないか。
どうして、その埋め合わせを私がしなければならないのだろう。
「でも、詩奈はあなたを愛してない。あなたはあの人の家庭を壊したんだよ。恨まれていてもおかしくない」
蒼士は一瞬黙り込み、かすれた声で答えた。
「詩奈に特別な感情なんてない。お前の家族だから、放っておけないだけだ」
大型ビジョンを借り切り、一晩中ベッドのそばにいた人が、よくそんなことを言える。
二人の関係は、もうとっくに一線を越えていた。
思わず乾いた笑いが漏れた。
「蒼士、詩奈は私の家族なんかじゃない。あの人は家政婦の娘だよ。私の人生を20年も奪って、私の両親の愛情まで独り占めした相手なの」
蒼士の表情が険しくなった。
「千夏、いつからそんなに嫉妬深くなった?詩奈だって何も知らなかった被害者だ。お前を守ると約束した。破る気はない。お前はれっきとした俺の妻だ。それ以上、何が欲しいんだ。
詩奈は命を絶とうとするほど追い詰められている。こんなときまで張り合うのか?」
あまりにも馬鹿げていて、笑いそうになった。
詩奈のどこが被害者なのだろう。
裕福な家で育ち、何不自由なく暮らしてきた。それでも飽き足らず、今度は私のそばにいる人まで奪おうとしている。
喉の奥にこみ上げる苦いものをのみ込み、蒼士を見上げた。
「じゃあ、私は傷ついてもいいの?詩奈は私の人生を奪った。今度は夫まで奪おうとしてる」
蒼士は苛立ちを隠そうともしなかった。
「何度言わせるんだ。詩奈はお前の家族だ。それに、俺の妻はお前だけだ!」
言い返そうとしたとき、部屋の隅にいる詩奈が視界に入った。
いつから聞いていたのかは分からない。ただ、その目に嫉妬がよぎったのを、私は見逃さなかった。
私は目を伏せた。
忘れていた。
そうだった。詩奈は昔から、哀れなふりをするのが誰よりもうまい。
上原家にいた頃も、詩奈が涙をこぼせば、悪いのはいつだって私になった。
蒼士に対しても、それは変わらない。
詩奈がその場を離れると、蒼士は気配に気づいたらしく、慌てて後を追った。
私に残したのは、短い一言だけだった。
「俺の妻は千夏だけだ。だから、もう詩奈に意地を張るな」
その背中を見送り、私は笑うしかなかった。
蒼士は知らない。
私の胸で動いている人工心臓は、もうすぐ止まる。
彼の妻でいられる時間は、ほとんど残っていなかった。
第2話
蒼士が追いかけていったあと、詩奈をどうなだめたのかは知らない。
二人が戻ってきたとき、詩奈の口元にはまだ笑みが残っていた。こちらを見る目は、隠しようもなく勝ち誇っていた。
無視するつもりだった。
けれど、その首にかかったネックレスを見た瞬間、息が止まった。
蒼士から初めてもらったプレゼントだった。
駅前の露店で買った、半分のハートをかたどった安物のペンダント。それでも私には、どんな宝石より大切だった。
蒼士は同じものを二つ買った。一つは私に、もう一つは自分に。
二つを合わせれば、一つのハートになる。
あの頃、彼はこう言った。
「千夏も俺も、半分死んだように生きてきた。でも二人なら、ちゃんと生きていける」
その片割れが、今は詩奈の首にかかっていた。
リビングで私と鉢合わせた詩奈は、指先でペンダントを弄びながら小首をかしげた。露骨に勝ち誇った顔をしていた。
「千夏、蒼士がどうしてもって、これをくれたの。お守りになるからって。気にしないよね?」
胸元をそっと押さえると、どっと疲れが押し寄せた。
「気にしない」
私は淡々と答えた。
「もう要らないものだから。欲しいなら、あげる」
蒼士さえ、もう要らない。
ペンダント一つに、何の意味があるだろう。
部屋へ戻ってドアを閉めた途端、胸に激痛が走った。
胸を押さえたまま、その場にうずくまった。冷や汗で一気に背中が濡れた。
人工心臓の合併症は、日に日に悪化していた。
よろめきながら引き出しを開け、白い薬のボトルへ手を伸ばした。
空だった。
一瞬、頭が真っ白になった。
あれは人工心臓を維持するため、海外から取り寄せている薬だ。国内では手に入らず、一錠たりとも無駄にはできない。
痛みに耐えながら、蒼士の秘書へ電話をかけた。
秘書はしばらく言いよどんだ末、小さな声で答えた。
「奥様、あのお薬なら、社長がお持ちになりました」
頭を殴られたようだった。
残った力を振り絞り、書斎のドアを押し開けた。
蒼士は書類に目を通していた。青ざめた私を見ると、わずかに眉をひそめた。
「どうしてノックしない」
ドア枠につかまり、震える声で尋ねた。
「私の薬は?」
蒼士は怪訝そうに目を上げたあと、何でもないことのように視線を外した。
「詩奈はこのところ、動悸がして眠れないらしい。お前の薬も心臓の薬だろう。あいつにも効くと思って、しばらく使わせることにした」
信じられない思いで彼を見た。
「あれは人工心臓を維持するための薬なの。飲まなければ心臓が止まる。私は死ぬの」
蒼士は書類を閉じ、冷ややかな顔を向けた。
「詩奈はうつ病なんだ。放っておけば、本当に死ぬかもしれない。お前は手術から何年もたっているだろ。今さら少しくらい薬が切れたところで、大げさすぎる。
病人を相手に、薬まで取り合うのか?嫉妬だけじゃなく、平気で嘘までつくようになったんだな。心底がっかりした」
私は蒼士を見つめた。
その目に浮かんでいるのは、嫌悪と苛立ちだけだった。
ふいに、3年前の記憶がよみがえった。
人工心臓を入れる手術を受けたばかりの頃、麻酔が切れたあとの痛みに、私は全身を震わせていた。
蒼士は何晩も眠らずに私の手を握り、目を真っ赤にして額に口づけた。
それなのに今は、詩奈が「動悸がして眠れない」と訴えただけで、私の命をつなぐ薬を奪った。
この心臓が薬なしではもたないことなど、すっかり忘れていた。
第3話
私は神谷邸に残る自分の痕跡を、一つずつ片づけ始めた。
もっとも、たいしたものは残っていない。
かつて私は蒼士に喜んでもらいたくて、亡くなった彼の母親が好きだったカスミソウを庭いっぱいに植えた。
ここを帰りたいと思える家にしたくて、陶芸教室へ1か月通い、ペアマグも作った。
今はカスミソウを根ごと抜き、ゴミ袋へ放り込んだ。
ペアマグも、古い段ボール箱へ無造作に投げ入れた。
夜になって帰宅した蒼士は、ほとんど空になったクローゼットを見て眉を寄せた。ネクタイを緩めていた手が止まる。
「荷物はどうした?」
私は最後に残った本をまとめながら、顔も上げずに答えた。
「古くなったし、邪魔だから捨てた」
蒼士はそばまで来ると、私の顔をのぞき込んだ。
泣き叫ぶことも、目を赤くして詰め寄ることもない。
ようやく詩奈に張り合うのをやめたと思ったのだろう。ほっとしたように私の頭を撫でた。
それからブラックカードを取り出し、目の前へ差し出した。
「千夏、分かってくれたならそれでいい。欲しいものがあれば、このカードで買え。詩奈は今日も不安定なんだ。今夜はあいつのそばにいる。お前は先に休め」
私は手を伸ばさなかった。
「要らない。欲しいものなんてないから」
蒼士は気にも留めず、カードを机へ置いて部屋を出ていった。
蒼士は、私が何を言われても従うと思っていた。
けれど実際には、彼のお金を使ったことなどほとんどない。
一度だけカードを使ったのは、蒼士の誕生日プレゼントを買ったときだった。
レジで伝票に署名を求められ、私はペンを握ったまま戸惑い、しばらく動けなかった。
やがて、その薄い伝票に彼の名前を書いた。
胸の奥に、誰にも言えない喜びを抱えながら。
幼い頃から愛された記憶のない私には、それが不思議なほど幸せなことだった。
その名字を書いただけで、自分にも帰る家ができた気がした。
彼の妻になり、ようやく守られる側になれたのだと思った。
けれど今、机の上のカードを見ても、あの頃の自分が哀れで滑稽に思えるだけだった。
遠ざかる蒼士の背中に、声には出さず告げた。
さようなら。
翌朝、私は一人で病院へ向かった。
検査結果に目を通した高峰教授は、深く眉を寄せた。
「千夏さん、人工心臓に伴う合併症が悪化し、危険な状態になっています。すぐに再手術を受けなければ、もって3か月です」
私は黙って聞いていた。不思議と呼吸も乱れなかった。
「適合するドナーはいますか?」
高峰教授は苦い表情で首を振った。
「今のところ、国内にはいません。それに、待てる状態でもない」
しばらく迷ったあと、教授は引き出しから一通の書類を取り出した。
「海外で、再生組織を使った新型バイオ人工心臓の臨床試験が始まっています。まだ第2相で、成功率は非常に低い。
それでも被験者として参加し、わずかな可能性に賭ける覚悟があるなら、結果にかかわらず費用はすべて研究機関が負担します。
今のあなたに残された、たった一つの可能性です」
差し出された同意書を見つめた。
思い浮かんだのは、詩奈へ向ける蒼士の優しい眼差しと、私の薬を奪ったときの冷たい顔だった。
私はペンを取り、ためらうことなく署名した。
第4話
海外の臨床試験へ参加するには、審査に1週間かかるという。
出発までの1週間で、詩奈の振る舞いはますます露骨になった。
蒼士を独り占めするだけでは飽き足らず、私の目の前で挑発するようになった。
ある夜、詩奈は蒼士のシャツを身につけ、寝室の前に立っていた。胸元を押さえ、いかにも苦しそうに涙をこぼしている。
「蒼士、この部屋を見ると、藤原家が破綻した夜を思い出すの。怖くて眠れない。胸が苦しい……」
蒼士は痛ましそうに詩奈を抱き寄せ、私を振り返った。
「千夏、詩奈は具合が悪い。お前はゲストルームを使え」
詩奈を落ち着かせるため、蒼士は妻の私に寝室を明け渡せと言った。
そこまで詩奈を愛しているのなら、なぜ結婚式の日、私の手を取って「これからはずっと守る」と言ったのだろう。
ふと、新婚初夜のことを思い出した。
あの夜、蒼士は立っていられないほど酔い、ベッドへ倒れ込んだ。
水を持ってこようと立ち上がった私の手首を、彼は強くつかんだ。熱を帯びた頬を私の手のひらへ押し当てた。
目を閉じたまま、熱い息をこぼすように呟いた。
「ちな……行かないで」
あのときは目頭が熱くなった。
この世界で初めて、自分を大切にしてくれる人に出会えたのだと思った。胸が締めつけられるほど、うれしかった。
けれど、今になってようやく分かった。
あれは「ちな」ではなかった。酔って舌のもつれた彼が呼んだのは、「しいな」だったのだ。
蒼士は、私をそんなふうに呼んだことなど一度もない。
私はうなずいた。
「分かった」
蒼士が目を見開いた。
あまりに素直に背を向けた私に、何かを感じたのかもしれない。
その瞬間、蒼士はとっさに私の手首をつかんだ。その力は驚くほど強かった。
「千夏」
声がかすれていた。
「数日だけ我慢してくれ。詩奈が落ち着いたら、アイスランドへオーロラを見に行こう。前から行きたがっていただろ」
手首を強く握るその手を見下ろした。
かつて蒼士は同じように私の手を握り、代われるものなら痛みも代わってやりたいと言ってくれた。
今は、わずかな埋め合わせで私をなだめたつもりなのだろう。
私はその手をそっと外した。
「うん。楽しみにしてる」
迷いなく答えた。
けれど、アイスランドのオーロラを見る日は来ない。
この先、生きても死んでも、私の未来に蒼士はいない。
蒼士はまだ何か言おうとした。だが詩奈が再び苦しそうな声を上げると、一瞬迷った末、やはり詩奈のもとへ向かった。
寂しさを悟られないよう、目を伏せた。
すでにまとめてあった荷物を手に取り、そのまま家を出た。
空港へ向かう途中、高峰教授から電話がかかってきた。
「千夏さん、主治医の加藤先生も、もう空港へ向かっていますね?」
窓の外を流れていく景色を見ながら答えた。
「蒼士に呼び戻されました。詩奈の具合が悪いから、残るように言われたそうです」
電話の向こうで、教授が声を荒らげた。
「何を考えているんだあいつは!あなたはいつ心停止を起こしてもおかしくないんです。移動中も専門医の付き添いが必要だと、あれほど言ったのに!」
家を出るとき、空港で落ち合う約束だった加藤医師へ連絡していた。
だが彼は、蒼士から緊急に呼び戻されたという。
詩奈がひどく取り乱し、自傷するおそれがあるため、神谷家と契約している医療スタッフは全員待機しろと厳命されたらしい。
車は高速道路を走り続けていた。
突然、胸を引き裂くような痛みが走った。
目の前が暗くなり、意識が途切れた。
耳をつんざくブレーキ音とともに、車は制御を失い、ガードレールへ激突した。
同じ頃、神谷邸では、蒼士が詩奈の訴えに苛立っていた。
詩奈はまた痛いと騒ぎ、千夏の主治医まで呼び戻していた。
そのとき、ポケットのスマホが鳴った。
見覚えのない番号だった。
蒼士は眉を寄せながら電話に出た。
「神谷蒼士さんで間違いありませんか。上原千夏さんが空港へ向かう途中、高速道路で重大事故に遭いました。現場で死亡が確認されています。身元確認のため、至急こちらへお越しください」