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夫が私を愛した頃、私は死後二年だった
私が死んで2年後、夫の神崎怜司(かんざき れいじ)は幼なじみの榊原紗季(さかきばら さき)のために角膜を提供しろと私に迫った。 角膜を自発的に提供する旨の同意書まで持って家に来たのに、そこには誰もいなかった。 仕方なく、夫はマンションの管理人に私の行方を尋ねた。すると、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。 「神崎結衣(かんざき ゆい)さんですか?もう亡くなっていますよ。臓器提供の手術を受けたあと、薬を買うお金がなくて、全身に感染が広がり、助からなかったそうです」 夫は信じなかった。私が彼の幼なじみを見殺しにするためについた嘘に違いないと思ったのだ。管理人を指さし、怒鳴りつけた。 「結衣にいくらもらって、あいつと一緒に俺をだましてる!前は肝臓を少し提供させただけだろう。あんな簡単な手術で、死んだふりまでするのか! 3日以内に顔を出さなければ、足の不自由な父親の治療は打ち切る。そう伝えろ!」 そう言い捨て、ドアを乱暴に閉めて出ていった。 怒りに肩をいからせた後ろ姿を見送り、管理人はため息をついた。 「でも、お父様も娘さんの死を受け入れられず、とっくに川に身を投げて亡くなっているんですが……」
チャプター (1)
第1章
私が死んで2年後、夫の神崎怜司(かんざき れいじ)は幼なじみの榊原紗季(さかきばら さき)のために角膜を提供しろと私に迫った。
角膜を自発的に提供する旨の同意書まで持って家に来たのに、そこには誰もいなかった。
仕方なく、夫はマンションの管理人に私の行方を尋ねた。すると、返ってきたのは思いもよらない言葉だった。
「神崎結衣(かんざき ゆい)さんですか?もう亡くなっていますよ。臓器提供の手術を受けたあと、薬を買うお金がなくて、全身に感染が広がり、助からなかったそうです」
夫は信じなかった。私が彼の幼なじみを見殺しにするためについた嘘に違いないと思ったのだ。管理人を指さし、怒鳴りつけた。
「結衣にいくらもらって、あいつと一緒に俺をだましてる!前は肝臓を少し提供させただけだろう。あんな簡単な手術で、死んだふりまでするのか!
3日以内に顔を出さなければ、足の不自由な父親の治療は打ち切る。そう伝えろ!」
そう言い捨て、ドアを乱暴に閉めて出ていった。
怒りに肩をいからせた後ろ姿を見送り、管理人はため息をついた。
「でも、お父様も娘さんの死を受け入れられず、とっくに川に身を投げて亡くなっているんですが……」
第1話
私が死んで3年目、怜司がまた私を捜しに来た。紗季のために、私に角膜を提供させようというのだ。
屈強なボディーガードたちが、家の中を手当たり次第に捜し回る。床を剥がしてでも見つけ出そうという勢いだった。それでも結局、彼に向かって首を横に振るしかなかった。
「社長、ひと通り捜しましたが、どこにもいません」
リビングの真ん中に立つ怜司は、深く眉間にしわを寄せた。
「そんなはずがない!体の不自由なあいつが、どこへ行けるっていうんだ。絶対に隠れてる!」
すぐにスマホを取り出し、私の番号を呼び出す。けれど、聞こえてくるのは冷たい自動音声だけだった。
「おかけになった電話は、現在、電源が入っていないため……」
私はため息をついた。つながるわけがない。だって、私は3年前のあの手術で、もう死んでいるのだから。彼は私を気にかけたことも、見舞いに来たこともなかった。だから、死んだことさえ知らずにいた。
「結衣、ずいぶん偉くなったもんだな」
何度かけてもつながらず、怜司の我慢もとうとう限界に達した。鼻で笑うと、ボディーガードたちに命じた。
「管理事務所で防犯映像を確認しろ。どこまで逃げられるか、見てやる」
私は宙に浮かび、慌ただしく飛び出していく一団を見ていた。ただ、悲しかった。紗季のことが絡まなければ、彼がこんなに必死に私を捜すことなんてないのだろう。
私も彼らについて家を出た。
管理事務所に入るなり、怜司は机を平手でたたいた。当番の若い男性職員がびくりと肩を震わせる。
「神崎結衣の出入りの記録を出せ!」
職員は慌ててパソコンを操作し、やがて顔を上げた。どこか戸惑ったような表情だった。
「神崎さん、奥様は……もう長いこと、こちらに戻られていません」
「戻ってない?」
怜司は一瞬きょとんとしたが、何か思い当たったのか、みるみる顔に怒りが浮かんだ。
「ああ、そういうことか。外で男でも囲ってるから帰らないんだな!見つけたら、ただじゃおかない!」
そのまま高圧的な口調で、私が最後にどこへ行ったのか調べろと命じた。
けれど職員は、つばをのみ込んでから、おそるおそる口を開いた。
「実は、奥様は……3年前に亡くなっています」
その場の空気が凍りついた。怜司は面食らったような顔でつぶやいた。
「死んだ?いつの話だ?」
「3年前です」職員が記録を取り出した。「臓器提供の手術のあとに感染症を起こして、助からなかったんです……当時、ご家族にも連絡したそうですが、電話に出てもらえなかったと」
それまでは私の死を疑っていた怜司が、書類を目にした途端、ふっとせせら笑った。目をむき、またあの威圧的な顔に戻る。
「嘘をつくなら、もう少しましな嘘をつけ。結衣にいくらもらって、俺をだましてる!肝臓を少し提供させただけだろう。あんな簡単な手術で、死んだふりまでするのか!
あのとき紗季は、手術は何の問題もなく終わったと言っていた。結衣の回復も順調で、すぐ退院したって、はっきり言ったんだ。それを今さら、死んだって?誰が信じるか!」
怜司が机を何度もたたく。その剣幕に、職員も必死になった。
「嘘ではありません!ご遺骨は今も斎場に預けられたままで、引き取りに来る方もいないんです……」
「黙れ!」怜司は鋭い目で職員をにらみ、言葉を遮った。
「前に提供させたときも、今にも死にそうなふりをしてたじゃないか。それがどうだ。ぴんぴんしてたくせに!お前ら、そろってあいつの味方か。紗季が失明するのを黙って見てるつもりなんだな。そうはさせない!」
これ以上話す気はないとばかりに、怜司は捨てぜりふを残して背を向けた。
「3日以内に顔を出さなければ、足の不自由な父親の治療は打ち切る。そう伝えろ!」
若い職員は何か言いかけたが、結局、ため息をついただけだった。
「でも、お父様も娘さんの死を受け入れられず、とっくに川に身を投げて亡くなっているんですが……」
第2話
当然、最後のひと言は怜司の耳に届かなかった。
私は彼の背後を漂いながら、彼が車に乗り込み、ドアを力任せに閉めるのを見ていた。
助手席にいたのは、紗季だった。両目には厚くガーゼが巻かれ、唇は不自然なほど血の気を失っていた。
「どうしたの、怜司。結衣さん、見つからなかった?」
「あいつの話はするな!どこで覚えたんだか、人とぐるになって、死んだなんて嘘までついてるんだぞ!」
怜司は怒りをぶちまけた。だが紗季を不安にさせたと思ったのか、急に声を和らげてなだめた。
「でも、心配しなくていい。必ず見つける。絶対に何とかするから、安心してくれ」
病院へ戻る間、彼は何度そう約束しただろう。紗季を支えて病室に戻るときまで、信じられないほど優しい声だった。
「先に休んでてくれ。先生に話を聞いてくる」
紗季はうなずき、弱々しくほほえんだ。
「怜司、いろいろありがとう」
怜司は笑いながら、彼女の布団を掛け直した。「何を言ってるんだ。紗季のためなら、当たり前だろう?」
寄り添う二人をそばで見ていると、胸が苦しいほど痛んだ。
彼が私にあんなふうに接してくれなくなって、どれくらいになるだろう。紗季が戻ってきたころからだった気がする。私が死んで丸3年。彼の心には、いつだって紗季しかいなかった。
そんなことを考えていると病室のドアが開き、カルテを持った主治医が怜司を外へ呼び出した。
「神崎さん、榊原さんの状態がよくありません」
医師は眉をひそめ、手元の検査結果を指し示した。
「角膜潰瘍が予想よりも速く広がっています。このまま適合するドナーが見つからなければ……」
怜司の顔から、さっと血の気が引いた。
「先生、まだ待てるって話じゃなかったんですか?」
「以前は楽観的に見ていましたが、今は炎症を抑えられません。できるだけ早く、遅くともあさっての午前中には手術が必要です。これ以上遅れると、適合する角膜が見つかっても視力が戻らないおそれがあります。早急にドナーと連絡を取ってください」
突然の知らせに、怜司はその場で立ち尽くした。慌ててスマホを取り出し、秘書の瀬川律(せがわ りつ)に電話をかける。
「瀬川、神崎結衣の居場所はつかめたか?
まだだと?役立たずが……早く捜せ!街中ひっくり返してでも見つけ出せ!」
医師の背後に浮かんでいた私は、医師が「神崎結衣」という名を聞いた途端、眉を寄せたのを見た。
「神崎さん、その神崎結衣さんという方ですが……どこかでお名前を聞いたような気がします」
怜司は電話に向かって「見つけられなければ、お前はクビだ!」と怒鳴っていたが、苛立った様子で振り返った。
「知ってるんですか?」
医師は少し考え込んだ。「はっきりとは。ただ、聞き覚えがあるんです。以前の患者さんかもしれません。戻ったら記録を確認してみます」
「その必要はありません」怜司は電話を切り、見下したように言った。「あんな貧乏人、先生に診てもらえるような身分じゃない。手術の準備だけしておいてください。必ず連れてきます」
医師はそれ以上言わず、いくつか注意を伝えて立ち去った。
病室には、また私たち三人だけになった。
戻ってきた怜司の小さなため息を聞いて、紗季がぽつりと言った。
「ねえ、怜司……もう、いいんじゃない?結衣さんは本当に嫌なのかもしれないし、無理をさせるのはやめよう……」
「どうしてだ!」
その言葉に怜司はかっとなり、目をつり上げた。
「あいつのせいで俺たちは誤解して、あんなに長い間離れ離れになったんだぞ!何もかも、あいつがお前に、俺たちに償わなきゃならないことだ。自業自得だろう!」
笑ってしまいそうだった。そう。私は彼に償わなければならないらしい。結婚を奪い、幼なじみとの仲まで引き裂いた、その償いを。
でも、少しでもちゃんと調べれば、紗季が裕福な暮らしを求めて彼を捨てたのだと、わかったはずなのに。そのあと重い病気になったから、彼のもとへ戻ってきただけだ。しかも、二人を別れさせたのは私の差し金だと、嘘までついて。
たったひとつの嘘のために、怜司は私を何年も何年も憎み続けた。
その瞬間、何もかもに疲れてしまった。
3年前、手術台の上で麻酔が少しずつ切れていくなか、私が何より願ったのは、彼が会いに来てくれることだった。
――入口に立って、遠くからひと目見てくれるだけでよかった。たった一人で、感染に体を蝕まれていくのを感じるより、ずっとよかった。
けれど、彼は来なかった。
そのころ彼は、1泊400万円もする高級療養施設で、紗季の療養に付き添っていた。
二人で指を絡めて手をつないだ写真を、SNSに載せていた。添えられていたのは、【いつまでも健やかでいてほしい】という言葉。
今も彼は、紗季の目のために血眼になっている。自分が冷たく突き放し続けたその相手が、とっくに死んでしまっていることも知らずに。
第3話
紗季を寝かしつけたあと、怜司は静かにドアを閉め、廊下のベンチに腰を下ろした。
窓から入る夕風に消毒液の匂いが混じり、彼の周りを流れていく。
スマホを取り出し、しばらく画面を指でなぞっていた彼が、ふいに私とのトーク画面を開いた。
背後から見慣れた画面をのぞいた瞬間、心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。やり取りは3年前で止まっていた。最後は、私からのメッセージだった。
【わかった。提供する。紗季には安心してって伝えて。手術はきっとうまくいくから】
さかのぼっても、果てしなく続くのは私ばかりが送った言葉だった。
【怜司、今夜は家で食べる?ミネストローネ、作ったよ】
【明日は雨だって。傘、忘れないでね】
【今日もお父さんがあなたのことを聞いてた。あなたが作る魚料理が食べたいんだって】
【仕事の契約が取れたの。それで、あなたにブレスレットを買ったよ。帰ってきたら、つけてあげるね】
何通送っても、返事はひと言もなかった。すべて、深い海の底に沈んでしまったみたいに。
怜司の指が画面の上で止まり、長い間動かなかった。廊下の明かりが顔を照らし、その口の端がほんの少し下がるのが見えた。その目はうっすらと潤み、言葉にできない懐かしさと、寂しさを帯びているようだった。
胸に、かすかな期待がともった。私のことを……思い出してくれたの?ほんの少しでも。
けれど、浮かんだばかりの期待を消したのは、ほかでもない彼だった。突然トーク画面を閉じ、顔を上げたときには、もう冷たい焦りしか残っていなかった。
怜司はそのままスマホを操作し、秘書にメッセージを送った。
【結衣の居場所はわかったか。あと1日だけだ】
私は苦く笑った。やっぱり、勝手に期待しただけだった。
そのとき、廊下の向こうから、澄んだ落ち着いた男の声がした。
「神崎?」
顔を上げた怜司は、相手を見るなり眉を寄せた。
「三枝?どうしてここにいる」
三枝悠真(さえぐさ ゆうま)が歩み寄ってくる。足取りに合わせて、白衣の裾が小さく揺れた。今はこの病院で眼科医をしている。大学時代、怜司が誰より嫌っていた人だった。悠真は、私のことが好きだったから。
でも当時の私は怜司しか見ていなくて、悠真の想いをずっと受け入れなかった。
こんな形でまた会うことになるとは、思ってもみなかった。
「当直だ」悠真の視線が、怜司の顔で止まった。「君は患者の付き添いか?」
「お前には関係ないだろう」
怜司のとげとげしい返事に、悠真もそれ以上問いかけなかった。
病室の窓越しに中を一瞥し、隠しきれない嫌悪を顔に浮かべた。
「ふん。あれだけ大層なことを言って、どれだけ続くのかと思っていたけどな。結局、あっという間にほかの女か」
怜司は勢いよく振り向いた。けれど、その目は落ち着かずに泳いでいた。
彼も思い出したのだろうか。私と付き合い始めたころ、悠真に諦めさせようとした、あの日のことを。私の手を握って、彼は一語一語はっきりと言ったのだった。
「諦めてくれ。俺たちはずっと一緒に、幸せにやっていく。俺は結衣を、永遠に愛する」
彼の言う永遠は、たった数年しかなかった。
怜司の顔にいくつもの感情がよぎった。この話はもう続けたくないとばかりに、背を向けた。
立ち去ろうとする彼に、悠真が再び声をかけた。憤りをにじませた声だった。
「もう結衣を待つな。彼女は、もういない」
怜司の足が止まった。振り返った顔は、怒りで青ざめていた。
「何を言ってるんだ。そんなの嘘だろう」
「嘘じゃない」
怜司を見つめる悠真の目に、こらえきれない涙が浮かんだ。
「3年前の手術のあと、感染症で亡くなったんだ。僕は当時、病棟での研修中で、最期に彼女に会った」
「ありえない!」
怜司の声が急に大きくなり、近くの病室から人が顔をのぞかせた。
「あいつは隠れてるだけだ!三枝、お前まであいつとぐるになって俺をだますのか。昔から俺たちが一緒にいるのが気に食わなかったんだろう。まだ邪魔するつもりか!」
「僕が嘘をつく理由があるか!」
悠真の怒鳴り声に、怜司は一瞬ひるんだ。悠真は息をつき、ゆっくりと言った。
「それに、彼女には誰かに償わなきゃならないことなんてない。あのとき君を捨てたのは、紗季のほうだ。学外の金持ちの男に乗り換えたんだよ。結衣は知っていた。でも、君を傷つけたくなくて何も言わず、ただ一途に君に尽くした。
なのに、紗季が戻ってきたら、君はあいつの嘘を信じた。別れたのは結衣のせいだと決めつけて、肝臓の提供まで強いた!
もともと体が弱かったことを、君は知ってるのか。医師に危険が大きいと言われても、彼女は同意書に署名したんだぞ。
もし結衣が生きていたら、今度は彼女の体の何を差し出させて、幼なじみの機嫌を取るつもりだったんだ!」
悠真の言葉は刃のように、怜司のいちばん痛いところを突いた。
怜司は信じられないという顔をして、唇を震わせた。けれど、ひと言も出てこなかった。
無理もない。悠真の話は、彼が信じていた紗季の姿を根底から覆すものだった。すぐに信じられるはずがない。
案の定、怜司は首を横に振り続け、「ありえない」と繰り返しながら、よろめくように後ずさった。
悠真は諦めず、一歩追いすがった。
「神崎!本当に……彼女のことは、少しも大事じゃないのか?」
怜司は一瞬こわばったが、答えなかった。その姿はすぐに廊下の奥へ消えた。
悠真はその背を見送り、長いため息をついた。
「結衣、ばかだよ。あんな男のために、そこまでする価値があったのか」
私は彼のそばに浮かび、怜司が消えたほうを見つめた。心の中は冷えきっていた。
価値は、あったのだろうか。昔は、あると思っていた。彼が笑いかけてくれるなら、何をしても惜しくなかった。
けれど今、逃げるような後ろ姿を見て、わからなくなった。
彼は少しでも、私を大事に思ってくれるのだろうか。たぶん……思ってくれない。
私のメッセージを読もうともせず、痛くないかと尋ねてもくれなかった人だ。
そして……本当の意味で私を愛してくれたことも、一度もなかった。
第4話
悠真の言葉が、まだ怜司の頭から離れないのだろう。逃げ出しても行くあてがないらしく、あてもなく車を走らせた末、結局また病院に戻ってきた。
車を降りたところへ、ちょうど秘書から電話が入った。
「社長、確認が取れました。奥様は3年前に亡くなられています。死因は……手術後、全身に広がった感染症です」
怜司の顔が、一瞬で険しくなった。
「嘘だ……嘘だ!あいつは生きてる。お前ら、そろいもそろって俺をだますつもりか!」
秘書は怯え、何も言えなくなった。
私は彼の前へ漂い、頬に触れようとした。けれど、伸ばした手は、その体をすり抜けるだけだった。
(怜司、いつになったら、私が本当に死んだって認めてくれるの?)
残念ながら、私の声はもう彼には聞こえない。
秘書との電話がつながったままのところへ、主治医が茶封筒を持って歩いてきた。怜司に気づき、足を止める。
「神崎さん、ちょうどよかった。わかりましたよ。おっしゃっていた神崎結衣さんは、3年前、危篤の状態でこちらへ転院されています。ただ、容体があまりにも悪いうえ、手術後に必要な薬を買うお金もなくて、最後は……」
医師は言い切らなかった。けれど、その先は誰にでもわかった。ため息とともに、茶封筒を差し出した。
「結衣さんの死亡に関する記録です。今、書庫から取り寄せました。必要な書類もすべてそろっています。お気の毒でした。まだお若かったのに」
その拍子に、茶封筒から死亡診断書と一枚の写真が滑り落ちた。写真は、彼が病室に残された私物の中から見つけ、診断書と一緒にしまっていたものだった。写真の中の私は入院着姿で、顔色は黄色くくすんでいた。それでも、目にはまだ消えきらない光が残っていた。
怜司の手が震え始めた。診断書と写真を食い入るように見つめ、何度も唇を動かしてから、ようやく声を絞り出した。
「違う……そんなはずは……」
一人の言葉なら、嘘かもしれない。けれど、誰も彼も同じことを言うのなら、それが事実なのだ。怜司にも、それはよくわかっているはずだった。
怜司は震える手で茶封筒を受け取った。喉に何かが詰まったようで、声ひとつ出せずにいた。廊下の消毒液の匂いが急にきつくなり、怜司はむせそうになった。思わず後ずさると、背中が冷たい壁にぶつかった。その冷たさが、背筋を伝ってせり上がる。
彼の目の奥で、固く閉ざされていた何かに、ひびが入った気がした。今度こそ、自分にまで嘘はつけなくなっただろうか。
「信じない……信じないぞ!結衣、俺から隠れてるんだろう?いいだろう。それで俺から逃れられると思うな!」
突然、怜司は我を忘れたようにスマホを持ち直し、通話の相手に怒鳴った。
「結衣の父親の医療費を止めろ!1円も振り込むな!それでも死んだふりを続けられるか、見てやる!」
電話の向こうで秘書がためらい、やがて小声で言った。
「ですが、奥様のお父様は……3年前、川に身を投げて亡くなっています」
吹き抜けていた風の音まで、一瞬で止まったようだった。
怜司の表情が凍りつき、スマホが乾いた音を立てて床に落ちた。死亡診断書も、ひらりと舞い落ちた。
私はそこへ近づき、紙に記された自分の名前を見て、ふっと笑った。
ほら、怜司。私は本当に死んだんだよ。もう、あなたの幼なじみに角膜をあげることもできない。
ねえ、これって、報いなのかな。